日部郷(読み)くさかべごう

日本歴史地名大系 「日部郷」の解説

日部郷
くさかべごう

和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。同名の郷は中島郡にも存在する。郷名の初出は、天平勝宝二年(七五〇)四月一一日付の智識優婆塞貢進文(正倉院丹裏古文書)に、「長谷部千松年十 尾張国愛智郡日部郷戸主長谷部呰戸口 天平勝宝二年月十一日」と記されるものである。これは当郷の長谷部呰の戸口である長谷部千松を、中央へ貢挙した際の貢進状で、この時点においては、大仏造立事業に奉仕したものであろう。

日部郷
くさかべごう

「和名抄」高山寺本にみえ、東急本・元和古活字本は「日野」とする。いずれも訓を欠く。「大日本地名辞書」「日本地理志料」ともに「日部」と考え、「くさかべ」と読むことでも一致する。日部郷は愛智郡にも存在する。郷域について、「大日本地名辞書」は「下津村の南にして、清洲駅に近し、本郡の東南隅とす、奥田、長束などの地皆この古郷域歟」とし、「日本地理志料」は「亘日下部増田、西市場、北市場、六角堂、井口、長束、奥田、高重、中荘、掘田、七ツ寺、大屋、北島諸邑」とし、現稲沢市の南東部から西春日井郡清洲きよす町の北端にかけての一帯としている。

弘安五年(一二八二)の千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)には、中島郡南条に属する草部くさかべ郷がみえ、古代の日部郷の系譜を引くものと考えられる。

日部郷
くさかべごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は雄略天皇皇后草香幡梭姫の御名代部日下部に由来するとされる。遺称地はない。「因幡民談記」は現智頭町智頭辺りをあて、「因幡志」は篠坂しのざか村より南東駒帰こまがえり村までと北は北股きたまた谷の蘆津あしづ八河谷やこうだに(以上現智頭町)までの地域に比定している。

日部郷
くさかべごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は雄略天皇皇后草香幡梭姫の御名代部日下部に由来するとされる。年未詳の因幡国戸籍断簡(正倉院文書)に戸主伊福部古麻呂戸に「婦日下部黒女 年 冊一 正女」がみえ、延喜五年(九〇五)九月一〇日の東大寺領因幡国高庭庄坪付注進状案(東南院文書)には「日下部弘乃」「日下部恵満女」の名がある。

日部郷
くさかべごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。比定地も未詳であるが、日下部であったものが古代の二字政策により改めたとする説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報