新田神社(読み)ニッタジンジャ

デジタル大辞泉 「新田神社」の意味・読み・例文・類語

にった‐じんじゃ【新田神社】

鹿児島県薩摩川内さつませんだい市にある神社。瓊瓊杵尊ににぎのみことを主神とし、天照大神あまてらすおおみかみ天忍穂耳尊あまのおしほみみのみこと配祀はいし。川内八幡。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「新田神社」の意味・読み・例文・類語

にった‐じんじゃ【新田神社】

[一] 東京都大田区矢口にある神社。旧府社。矢口渡で殺された新田義興をまつる。新田大明神。
[二] 鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市宮内町にある神社。旧国幣中社。祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ほか二柱。神亀二年(七二五)の創建と伝えられる。瓊瓊杵尊の古墳と伝えられる可愛山(えのやま)御陵の前にある。もとその中腹にあったが承安三年(一一七三)焼失後、永仁年間(一二九三‐九九)現在地に再興。古来、九州五所八幡の一つとして崇敬された。薩摩国一の宮。一之宮八幡。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「新田神社」の解説

新田神社
につたじんじや

[現在地名]川内市宮内町

宮内みやうち町北方、かめ(神亀山)の頂に社殿があり、背後の同じ山頂に可愛えの山陵がある。祭神は中尊が天津彦彦火瓊瓊杵尊、左は天照大御神、右は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。「三国名勝図会」には右の祭神は栲幡千々姫とある。旧国幣中社。山の南面の石階を下り池に架かる降来こうらい橋を渡ると二の鳥居がある。ここから南の川内川北岸の一の鳥居に至るまでの道の左右は旧社家屋敷の跡地で、元禄国絵図・天保郷帳などにはとくに薩摩郡新田村として記されている。なお年月日未詳の弥勒寺喜多院所領注進(石清水文書)五大ごだい院などとともにみえる薩摩国の「新田庄」はこの辺りをさすのであろうか。

〔成立〕

創建の時期については諸説あるものの、いずれも確かな典拠がない。建保二年(一二一四)作成の「新田宮縁起」にも具体的な記述はない。永万元年(一一六五)七月の寺家政所下文案(新田神社文書)に「御建立以来三百余歳」とあるところから、貞観年間(八五九―八七七)とする説もあるが傍証に乏しい。嘉禎四年(一二三八)六月一六日の官宣旨案(藤崎八幡宮文書)によれば、承平年中(九三一―九三八)五所別宮の一つとして成立したことになるが、これまた確証はない。「延喜式」神名帳には薩摩国二座として頴娃えい郡の「枚聞ヒラキヽノ神社」と出水いずみ郡の「加紫久利カシクリノ神社」のみがみえ、当社の名はみえないので、同書が撰上された延長五年(九二七)頃までに当社が創建されていたとしても、薩摩国を代表するような資格の神社でなかったことは明らかである。ただし永万元年の前出下文案に「当宮例名常見浮免田百五十余丁」とみえ、大治六年(一一三一)二月三〇日の在国司大前道助請文案(後日之式条)に「可早催造新田宮御殿三間四面事」とあることなどから、平安時代後期にはすでに存在していたことが確認できる。薩摩国府高城たき郡にあり、その近傍にしかるべき祭祀の社を求めるのは当然で、川内川を隔てた対岸の薩摩郡宮里みやざと郷にあった山城石清水いわしみず八幡宮社家同族紀氏の祭祀する神社を、国府に近接する新多にいた郷の、なかでもその地の雄族の古墳として畏敬されていた亀山の中腹に移したものと推測される(三国名勝図会・神社調・神代三陵志)。前出請文案に在国司が大行事職として造営せよとの庁宣を受けたとみえることから、この頃すでに国衙直属の神宮の処遇を受けていたものと思われる。

承安三年(一一七三)一二月一八日に新田宮神殿は全焼(建久六年六月一一日「新田宮神殿実検状案」後日之式条)、安元二年(一一七六)一〇月一四日の大府下文案(同書)によれば、宇佐(豊前宇佐宮)神殿・男山おとこやま(山城石清水八幡宮)宝殿の例に倣い、それまで中腹にあった神殿は卜筮の結果山頂に移し、敷地は社司神人の負担で整備し、社殿は国衙の負担で造営することになったとある。

新田神社
につたじんじや

[現在地名]相生町雄 岡

相生町の東端、矢筈やはず(五六五・八メートル)の西麓の台地にあり、那賀川中流の平野部を見渡す位置にある。主祭神は新田義貞、一説には新田(脇屋)義助を祀るとする。旧村社。創立年代は不明。もと那賀川のほとりにあったが、慶長年間(一五九六―一六一五)に赤痢の大流行で多くの死者をだしたことをきっかけに、当社を所管していた法輪ほうりん寺裏の高地(現在地)に遷座したと伝える。寛保改神社帳に新田大明神とあり、神主はいず、祭礼の節は雇神主が勤めるとある。新田神社は県内に一七社あるが(徳島県神社誌)、その所在地を東からみていくと、由岐ゆき町の伊座利いざり漁港の新田八幡神社、次いで日和佐ひわさ町の後世ごせ山南山麓に新田神社があり、続いて当社に連なっている。

新田神社
につたじんじや

[現在地名]伊予市大平

大平おおひらの小字四ッ松よつまつの山林中に高さ六〇メートル余、急傾斜の石段を登りつめた所に社殿があり、祭神に脇屋義助の子新田義治の神霊を祀る。「大洲旧記」中田渡なかたど村の記事によると、新田義貞の子義宗、義助の子義治の二人は南朝再興の志をもって出羽国羽黒山の麓に潜居していたが、明徳四年(一三九三)に伊予国の宮方土居・得能を頼り四国に渡ったとある。同書、大平村新田大明神の条に、

<資料は省略されています>

とある。

新田神社
につたじんじや

[現在地名]大田区矢口一丁目

多摩川左岸の東急玉川線矢口渡やぐちのわたし駅近くにある。祭神新田義興。江戸時代の称は新田明神社。義興は南北朝時代の武将新田義貞の第二子。「太平記」巻三三によると、再起を目指して武蔵国に潜伏していた義興は、竹沢右京亮の奸計に乗せられ、延文三年(一三五八)一〇月鎌倉へ向かう途次の矢口渡で、畠山国清家臣の江戸遠江守高重らの謀計にかかって憤死した。しかしほどなく高重は義興の怨霊にたたられ落馬して絶命、また国清の夢にも義興が鬼となって現れる。そして夢を語り終えないうちににわかに雷火で入間河いるまがわの在家や堂舎仏閣が灰燼に帰した。これだけではなく「義興討レシ矢口ノ渡ニ、夜々光物出来テ往来ノ人ヲ悩シ」たため、「近隣ノ野人村老集テ、義興ノ亡霊ヲ一社ノ神ニ崇メツゝ、新田大明神トテ、常盤堅盤ノ祭礼、今ニ不絶」という。

新田神社
につたじんじや

[現在地名]川之江市川滝町下山

下山しもやまの字新田にある。祭神新田義宗。旧村社。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡柴生村明細帳に、

<資料は省略されています>

とある。また「伊予温故録」に「社記に云ふ、新田左少将武蔵守義宗を祀る、祭典旧は柴生・下山両村にて執行せしか後ち下山一ケ村の主宰となる、社地西側の座上を以て両村の界とす、又た此社の後に墓所あり則ち新田義宗の墓なりと云ふ」とある。

新田神社
にゆうたじんじや

[現在地名]新富町新田

一ッ瀬川左岸の丘陵麓に位置する。祭神は彦火火出見命。旧郷社。新田の総鎮守で、古くは新田八幡と称された。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、同八幡領として新田・富田とんだ池内いけうち(現宮崎市)・たからへ(現高鍋町)などに合せて田一町半があった。天正五年(一五七七)の伊東氏の都於郡とのこおり(現西都市)落城の際兵火に遭い、本殿・宝物などが焼失したという。江戸時代には佐土原藩主の崇敬が厚く、神領一〇石が寄進された(宮崎県史蹟調査)。同社と春日神社の神官を勤める本部家には年月日未詳の八幡宮神事引付が伝えられる。

新田神社
につたじんじや

[現在地名]三加茂町西庄

加茂谷かもだに川右岸台地の小伝こでんに鎮座。祭神は大己貴命・志那津比古命・志那津比売命・大山津見命。西庄にししよう一帯の氏神として崇敬された。当社はもと荒神社と称していたが、新田義宗(新田義貞三男)が当地で没したため、その霊が合祀され、現社名に改められたと伝える。寛保改神社帳には新田八大につたはちだい荒神とみえ、禰宜は西庄村喜太夫であった。「阿波志」には新田祠とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新田神社」の意味・わかりやすい解説

新田神社
にったじんじゃ

鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市宮内町に鎮座。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の可愛山(えのやま)陵の前面にあり、天津彦彦火(あまつひこひこほの)瓊瓊杵尊を主祭神とし、東西2殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)・天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊を配祀(はいし)する。別名川内八幡(はちまん)ともいう。当社は神代の昔すでに社殿を参道石段の中段に設け、祭祀を厳修したという。永万(えいまん)元年(1165)の古文書に貞観(じょうがん)年中(859~877)に再興とみえ、また『三国神社伝記』に聖武(しょうむ)天皇神亀(じんき)2年(725)創立とあり、安元(あんげん)2年(1176)宣旨を下し、現在の地に遷御された。1885年(明治18)国幣中社に列し、新田神社が正式社名となる。例祭は9月1日、ほかに1月7日の武射祭、3月21日の早馬祭(はやまさい)などがある。神宝に永仁(えいにん)2年(1294)銘牡丹双鳥鏡(ぼたんそうちょうきょう)(国指定重要文化財)など古鏡70余面のほか多数の古文書を蔵する。

[落合偉洲]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「新田神社」の意味・わかりやすい解説

新田神社 (にったじんじゃ)

鹿児島県薩摩川内(せんだい)市に鎮座。邇邇杵(ににぎ)尊を主祭神とし,天照大神,天忍穂耳(あめのおしほみみ)命を合わせまつる。新田八幡宮または川内八幡宮ともいう。社の背後の山は,神亀山とか八幡山と呼ばれているが,主祭神の御陵,可愛御陵(えのみささぎ)とされている。《三国神社伝記》によれば,725年(神亀2)の創建という。島津文書には薩摩国一宮と記され,藩主島津氏は藩内第一の社として崇敬していた。旧国幣中社。例祭は9月15日で,御神幸がある。旧5月6日には田植祭がある。古文書多数を所蔵し,重要文化財の古鏡もある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「新田神社」の解説

新田神社

鹿児島県薩摩川内市にある神社。創建年代は諸説あり不詳。祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)。鎌倉~江戸期の古文書を多数保有。「新田神社文書」として国の重要文化財に指定されている。「川内八幡」「新田八幡宮」などとも呼ばれる。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

百科事典マイペディア 「新田神社」の意味・わかりやすい解説

新田神社【にったじんじゃ】

鹿児島県川内(せんだい)市(現・薩摩川内市)宮内町に鎮座。川内八幡とも。旧国幣中社。瓊瓊杵(ににぎ)尊をまつる。725年の創建と伝える。隣接して祭神の山陵がある。例祭のほかに歩射祭,早馬祭,御田植祭が行われる。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

事典・日本の観光資源 「新田神社」の解説

新田神社

(鹿児島県薩摩川内市)
五所八幡」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報