西庄村(読み)にししようむら

日本歴史地名大系 「西庄村」の解説

西庄村
にししようむら

[現在地名]三加茂町西庄

加茂かも村の東、吉野川南岸に位置し、東は中庄なかしよう村、南西は井内いのうち(現井川町)。南部の山間の地は加茂山・西庄山と称した。祖谷いや深淵みぶち(現東祖谷山村)との間には桟敷さじき(一〇二一メートル)があり、この峠越えの道は吉野川流域の平野部と祖谷山を結ぶ幹道(祖谷道)として利用された。中世は金丸かなまる(金丸西庄)として推移。慶長二年(一五九七)の分限帳には「西庄上里共」とあり、九七四石余が稲田忠兵衛の知行。寛永一八年(一六四一)の忠英様御代両国内寺領社領等支配帳によれば当村に遍路屋往還分一〇石があり、これは中庄村の長善ちようぜん寺領であった。正保国絵図では高九七七石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方五〇四石余・畠方四七二石余、芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高六四六石余。貞享三年(一六八六)検地帳(三加茂町歴史民俗資料館蔵)では田四二町七反余・高七〇一石余、畠一〇一町余・高三五一石余、ほかに上毛高一〇石余。宝暦一一年(一七六一)の巡見村々指出(三好郡志)では家数五七五・人数二千一三二、郷鉄砲三、社八・寺二、酒屋一、牛八七・馬一五、高一千八九石余、物成四一三石余、庄屋は石井甚平。

西庄村
にしのしようむら

[現在地名]和歌山市西庄

海部あま郡に属し、小屋こや村の西方に位置する。北は葛城(和泉)山脈で和泉国に接し、南は海。小名に山下やましたしばがある。西庄の名は正応二年(一二八九)一二月日付の湯浅宗重跡本在京結番定文案(崎山家文書)に、一四番木本東きのもとひがし庄の次に「十五番 同西庄」とみえ、中世木本庄に含まれていたことが知られる。慶長検地高目録によると高一千一七六石余・小物成一〇石三斗四升五合。御領分加子米高帳(田中家蔵)によれば、加子米を負担する浦で加子米高六八石四斗。「続風土記」では高一千一九九石余、家数一七〇、人数七三一。貴志組に所属。明治三年(一八七〇)の人口米麦見積取調帳(古屋地区蔵)によれば家数二〇二、人数は八歳以上八二三、七歳以下一五二。

西庄村
にしのしようむら

[現在地名]岐阜市西荘にしのしよう市橋いちはし下奈良しもなら須賀すか

鏡島かがしま村の南と東に位置し、東は鳥屋とや村、南はつめ村。平坦地で、集落は北部にあり、南部の荒田あらた川近くに出郷がある。中世には一帯に西庄が成立していた。同庄は平田ひらた庄の一部が分れて成立したものと思われる。康安二年(一三六二)一一月一三日の源義熙・教照連署寄進状(立政寺文書)に「にしのしやう」とみえ、同庄内の堂ヶ跡の居屋敷の畠一段を曼荼羅堂(立政寺)へ寄進している。さらに貞治二年(一三六三)二月二九日には貞元が「平田西庄」の田一段などを立政りゆうしよう寺の智通に寄進するなど(「中務尉貞元寄進状」同文書)、庄内に文和三年(一三五四)頃に創建された立政寺に対して付近の地頭・土豪・百姓らから庄内などの土地が多数寄進されている。

西庄村
にしのしようむら

[現在地名]南区吉祥院きつしよういん西ノ庄〈猪馬場いのばば町・くろうち町・西浦にしうら町・西中にしなか町・東屋敷ひがしやしき町・ふち西にし町・向田むかいだ町・門口もんぐち町〉

北は葛野郡川勝寺せんしようじ(現右京区)、東は同郡御所ごしようち(現下京区)、南は吉祥院村中河原なかがわら村、西は中河原村に接し、村のほぼ中央を西高瀬にしたかせ川が北から東へ流れる。

平安京の条坊標示では、村域は右京八条三坊・四坊の一部と、九条二坊・三坊の多くの部分にあたる。

近世以前のこの地域に関する動勢は十分にはわからないが、文禄年間(一五九二―九六)には、福知三河守興隆の領地が村域の一部にあり、その居城吉祥院城の名残は、中ノ門・西ノ門・馬場等の小字にうかがえるという(京都府地誌)

西庄村
にしのしようむら

[現在地名]坂出市西庄町

江尻えじり村の南東に位置し、南にそびえる山北麓を丸亀街道が通る。寛永国絵図に村名がみえ、脇に「西庄高合二千九十五石九斗」とある。これは坂出・江尻・福江ふくえ三村の高を含む。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高九八五石余(坂出・江尻・福江の三村は独立して高付されている)。同一九年の小物成は綿五五四匁五分(高松領小物成帳)。溜池は水掛高一四石余の醍醐上だいごかみ池など一〇。

西庄村
にしのしようむら

[現在地名]香南町西庄

池内いけのうち村の南、横井よこい村の西にあり、讃岐山脈から派生した丘陵に連なる洪積台地上に立地。寛永国絵図に西庄とみえるが、高は井原いのはら郷に一括されている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高一八九石余。溜池は二七、うち天狗堂てんぐどう池など一二池で水掛高二九七石余。

西庄村
にししようむら

[現在地名]岡山市西庄

吉原よしわら村の西、芥子けしご山東麓に位置する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の西庄に村名があり、寛永備前国絵図では高三六九石余。「備陽記」によると田畠二六町余、家数六七・人数三九二、池一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高四六三石余、蔵入と家臣三人の給地。田方二三町余・畑方二町九反余、物成二四一石余・麦成七石余、家数三一・人数一四九、牛一三、社方二軒(人数八)、池一、樋八、土橋三、給人藪六、百姓自林約二四町、同一二町五反は吉原村と入会。

西庄村
にしじようむら

[現在地名]篠山市西荘にしじよう

八上上やかみかみ村の東、篠山川左岸に位置する。「丹波志」では曾路そうじ庄のうちで、高一四三石余、八上上村の支郷と記される。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では八上組で、家数五二・人数二七三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android