新市村(読み)しんいちむら

日本歴史地名大系 「新市村」の解説

新市村
しんいちむら

[現在地名]高野町新市

恵蘇えそ郡北部の毛無けなし山南西麓に位置し、村の南境を高野山たかのやま(現神之瀬川)が西流し、西境を本谷ほんだに(現和南原川)が南流する。耕地の大部分高野山川の北岸に分布する。北は和南原わなんばら村、東は下湯川しもゆかわ村と接する。

中世にはじび多賀たか村に属し、天正二年(一五七四)一一月二一日付多賀山通定宛行状(堀江文書)に「新市」とみえる。地庄の地頭山内通資は正和五年(一三一六)に関東から入部し、当村南東端にあるしとみ山に居城を築いた(芸藩通志)。通資はのちに本郷ほんごう(現庄原市)甲山こうやま城に移るが、蔀山城には一族を置き、地庄北部の支配に当たらせたので、当村は多賀村の中心地として発展した。蔀山城主多賀山通定のものと伝えられる墓も当地にある。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では「高ノ山村」に含まれ、「芸藩通志」によると七九町二段二畝一八歩、六二〇・一三六石、牛一一五・馬一二四。

新市村
しんいちむら

[現在地名]新市町新市

戸手とで村の西、神谷かや川の下流右岸に位置し、南は芦田あしだ川を挟んで芦田相方さがた村に対する。品治ほんじ郡に属した。「備後郡村誌」に「山一合田畑九合村ニ御座候、但六歩水損所、四歩旱損所」とある。西城路が通る。

村内の通称地名に新市・古市ふるいち北市きたいちがあり、「西備名区」に「和名類聚鈔に、品治郡の部に駅家あり、古市の事と云、是古の駅場にして、其処は亀寿山北の麓に有し町架也、夫を今の処にうつして新市場と云ひし、今新市と云ふ」とある。「備陽六郡志」は「往古宮内壱ケ村にて有けるが、慶長の比にや新市宮内上安井下安井四ケ村となれり、当村の内にても古市新市向市と三つに分てり」と記すが、元和五年(一六一九)の備後国知行帳、寛文四年(一六六四)の「寛文朱印留」にも村名は不載なので宮内みやうち村からの分村はその後か。

新市村
しんいちむら

[現在地名]浜坂町新市

岸田きしだ川を隔て古市ふるいち村の東にある。古くは古市村と一村で杉谷すぎたに村と称し、当地は向杉谷むこうすぎたにといったという(二方考)。江戸時代の領主の変遷は古市村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高七六石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳に村名がみえ、高は前出古高に同じで、小物成として山手米二石二升五合、桑手の綿一六八匁などが課せられていた。

新市村
しんいちむら

[現在地名]東予市新市

周桑しゆうそう平野北部を流れる大明神だいみようじん川の右岸に位置し、国安くにやす扇状地の扇端にある。国安村の南、安用出作やすもちしゆつさく村の北隣。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に「新市村 日損所」とみえ、石高は三六六石一斗五升、うち田方三〇一石七斗、畠方六四石四斗五升とある。松山藩領の村であったが、「松山領里正鑑」によると明和二年(一七六五)村高のうち二九二石九斗二升二合が上地され、残りは西条藩領とされ、幕末に及んだ。

享保一七年(一七三二)の「桑村郡大手鑑」によると石高一五一石一斗一升五合、うち田方一二四石八斗六升六合、畑方二六石二斗四升九合、田畑二一町九反二畝一歩、うち田方一四町九反一畝一六歩、畑方七町一五歩とあり、また家数二一。

新市村
しいちむら

[現在地名]中山町住吉すみよし

赤坂あかざか村の南西、きのえ川の下流左岸に位置する。南は退休寺たいきゆうじ村。伯耆街道が通る。八橋やばせ郡に属し、享保三年(一七一八)に地先新田として届出され、天保五年(一八三四)赤坂村の枝郷とされた(藩史)。天保郷帳に赤坂村枝郷と肩書して村名がみえ、高五〇石余。本免二ツ一歩。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五五石余、竈数一〇。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では、林一町余、家数一〇・人数四三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報