新原村(読み)にいばるむら

日本歴史地名大系 「新原村」の解説

新原村
にいばるむら

[現在地名]安心院町新原

津房つぶさ川を挟んで木裳きのも川の東に位置する。南はしよう村、北東飯田はんだ村。中世には新開しんがい庄のうちとされ、新開を「にいばり」とよんだことが地名の由来といわれる。また古くは永池ながいけ(長池)村と称したという。字ホキにはホキ横穴(五基)があり、付近からは弥生土器などが出土している。天正一五年(一五八七)黒田氏領、慶長五年(一六〇〇)中津藩細川氏領となる。

新原村
しんばるむら

[現在地名]須恵町新原

若杉わかすぎ山の南西に位置し、北は須恵村、南は宇美うみ(現宇美町)宇美村の枝村(元禄国絵図・天保郷帳)。元和四年(一六一八)黒田長政の命で他村から百姓を招いて新田を開発し村を起こした。当初二〇〇石の村であったが、農業に不適でのちには高一〇〇石とし、うち五四石余は寛文五年(一六六五)から年貢を免除され山林とした。佐谷さたに村と須恵村の境の原野を開発したが、のちには宇美村の一部を合せ、集落は同村と須恵村にまたがって形成された(武井家文書)。元禄五年(一六九二)には新原村の高一〇〇石・田畠一六町一反余、家数一一・人数六三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。

新原村
にいばるむら

中世のヶ村の内の一。西山にしやま(現西区)を合せた五ヶ村の一でもあった。四ヶ村のほかの村と同じように飯盛いいもり(現西区)の祭礼行事役が賦課され、応永四年(一三九七)六月二五日の飯盛宮行事役屋敷注文案(牛尾文書/飯盛神社関係史料集)と同一〇年三月五日の新原村祭礼屋敷帳写(同上)には八ヵ所の行事役を勤める屋敷が書上げられている。当村名を名乗る小領主新原氏は五ヶ村同心の中心的人物でもあった。

新原村
しんぱらむら

[現在地名]浜北市新原

馬込まごめ川上流右岸に位置する。三方原台地上の辺田原へたばらに飛地がある。甲州武田家の家臣新原弥左衛門尉村一が当地に土着し、新しく開拓して立村したとの伝承が残る。寛永二年(一六二五)七月、新原村八四石余が旗本近藤縫殿助用治に与えられている(記録御用所本古文書)。以降は旗本気賀近藤領で幕末に至る。正保郷帳では田方一六石余・畑方六七石余。元禄郷帳では高八四石余。天保郷帳では高四五七石余。宝永四年(一七〇七)本坂通気賀けが宿(現細江町)の助郷村となる。延宝二年(一六七四)寅の満水とよばれる小天竜川(馬込川)の堤防の決壊により大きな被害を受けた。

新原村
しんばるむら

[現在地名]古賀市新原

犬鳴いぬなき山の北西に位置し、西は鹿部ししぶ村。唐津街道が通る。小早川時代の指出前之帳では新原村の田二二町八反余(分米二五六石余)・畠二二町余(分大豆六五石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六一六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高六五〇石余、家数四三・寺一・社一、人数二九三(田圃志)

新原村
しんばらむら

[現在地名]小国町新原

杉沢すぎさわ村の南、大滝おおたき川の中流域山間に位置する。享和二年(一八〇二)小国絵図に村名が載り高一三一石余、夫頭三四人。上杉領村目録には「納帳ハ一牒也」と注記があって、高・反別・免は杉沢村のうちに含まれ、当村分は家数七・人数三三、馬九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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