糟屋郡(読み)かすやぐん

日本歴史地名大系 「糟屋郡」の解説

糟屋郡
かすやぐん

面積:一六四・五七平方キロ
新宮しんぐう町・久山ひさやま町・篠栗ささぐり町・粕屋かすや町・須恵すえ町・志免しめ町・宇美うみ

県北部に位置し、北は玄界灘に臨む。東は北部から古賀市、犬鳴いぬなき(「いんなき」ともいう。五八三・七メートル)から若杉わかすぎ(六八一メートル)を経て三郡さんぐん(九三五・九メートル)へと至る三郡山地で鞍手くらて若宮わかみや町・飯塚市・嘉穂かほ筑穂ちくほ町と接し、南は筑紫野ちくしの市・太宰府市・大野城市、西側の北部は福岡市東区と、南部は大城おおき(四一〇メートル)から北へと延びる丘陵で同市博多区と接する。東部の山地に流れを発する多々良たたら川が西流し、東区で博多湾へと入る。郡南部からは須恵川を合せた宇美川が北流して河口部で多々良川に合流する。同川下流の粕屋町から東区にかけては、かつて多々良潟とよばれた低平地が広がる。県道筑紫野―古賀線と九州自動車道、JR香椎かしい線が南北にほぼ並行し、東西にはJR篠栗線が通り、並行する国道二〇一号は福岡インターチェンジと福岡都市高速とを結んでいる。北は海岸に沿って西鉄宮地岳みやじだけ線、さらにJR鹿児島本線、国道三号が並行し、北九州市と福岡市とを結ぶ交通の大動脈となっている。郡の中央を北東から南西へと山陽新幹線が通じ、博多駅へと至る。

〔原始・古代〕

古賀市を含む旧糟屋郡域の旧石器時代の遺跡は、粕屋町駕輿丁池かよいちよういけ遺跡・上大隈かみおおくまカケづか遺跡をはじめ、九州内でも古くから注目されている遺跡もあるが、正式な発掘調査は須恵町乙植木山城戸おつうえきやまきど遺跡のみで、細石刃文化単純層が確認されている。縄文時代では粕屋町江辻えつじ遺跡(前期―晩期)、古賀市川原西地区かわはらにしちく遺跡群(後期)などが発見され、久山町久原くばら遺跡群や夜臼式土器の標式遺跡である新宮町夜臼ゆうす遺跡など、晩期になると微高地に増加する兆しをみせる。弥生時代には全域を通じて集落や墓地が急速に増加し、微高地や各丘陵上に展開していくことになる。郡南域で江辻遺跡や久山町天神面てんじんめん遺跡(中期)などが確認されている。郡北域では古賀市井出流いでながれ遺跡(前期)浜山はまやま遺跡群(中期)久保長崎くぼながさき遺跡(後期)、新宮町夜臼ゆうす三代地区みしろちく遺跡群(後期)など、各小丘陵単位で比較的まとまった集落を形成し、水田遺構の発見や環濠集落の可能性も示唆されている。また墓制は糟屋地方独自の展開を示すようになる。当郡は奴国域の東限と推定されているが、多々良川以北には基本的に大型甕棺(成人棺)の群集化は認められない。江辻遺跡(早期・前期)や新宮町白峯しらほ遺跡(前期―古墳時代初頭)など土壙墓・木棺墓が主体となっているが、一方で古賀市を中心に馬渡うまわたりそくうら遺跡(前期末―中期初頭)鹿部皇石宮ししぶおおいしのみや遺跡支石墓(中期後半)など首長層墓であると考えられている墓には大型甕棺を用い、高い割合で青銅器の保有がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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