須恵村(読み)すえむら

日本歴史地名大系 「須恵村」の解説

須恵村
すえむら

[現在地名]須恵村 石坂いしざか今村いまむら屯所とんところはる諏訪原すわのはる阿蘇あそ松尾まつお平山ひらやまなかたん浜上はまのうえ竹原たけはら覚井かくい上手うわで川瀬かわぜ中島なかしま

球磨郡の中央に位置し、村域南端を球磨川が東西に貫流し、東はまつ川を隔てて黒肥地くろひじ村・多良木たらき(現多良木町)に接し、北はきた(六七九・二メートル)を境に四浦ようら(現相良村)、西は深田ふかだ(現深田村)、南は免田めんだ(現免田町)に接する。建久八年(一一九七)閏六月日の肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)の「公田九百丁」に「豊永四百丁 地頭 藤原家基三百丁字須恵小太良」とあり、豊永とよなが郷のなかに須恵小太良の開発になる須恵村が含まれたと理解されている。また弘安六年(一二八三)七月三日の関東下知状案(平河文書)には「如同所帯貞応三年正月御下知案者、肥後国球磨郡内須恵庄是永、依地頭須恵後家狼藉之咎被召其職畢」とあり、須恵庄ともよばれ須恵小太良から須恵尼に伝領されていた。暦応年間(一三三八―四二)と思われる年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(相良家文書)に「須恵彦四郎跡 一所 肥後国球磨郡須恵庄三分壱田地肆拾五町」とあり、この時期まで三分一地頭職は須恵氏の手にあったが、これ以後相良氏の支配に入った。

須恵村
すえむら

[現在地名]宗像市須恵・大谷おおたに天平台てんぴようだい・くりえいと二丁目

つり川の支流山田やまだ川中流域右岸に位置し、西は稲元いなもと村。建長元年(一二四九)九月一七日、領家の西園寺実氏は藤原(武藤)為頼を土穴つちあな稲本いなもと・須恵三ヵ村名主職に補任している(「西園寺実氏政所下文」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一〇)。下文は宗像庄官等宛で、当村は宗像庄に含まれていた。以降、正応三年(一二九〇)七月二二日の讃岐守惟宗某下文(同文書/鎌倉遺文二三)に至るまで稲本村・土穴村の二ヵ村とともに推移するが(→稲元村、文永九年(一二七二)九月三日の宗像大神宮神官・僧官・御灯衆等連署起請文(同文書/鎌倉遺文一五)によると、当村は大治年中(一一二六―三一)大宮司宗像氏房が宗像社第三宮長日不断香油料所に寄進し、その嫡男氏成が相伝沙汰した社領であった。

須恵村
すえむら

[現在地名]竜王町須恵

山面やまづら村の東に位置する。村域のほぼ中央を祖父そぶ川が北西流し、やや東方寄りで支流惣四郎そうしろう川が合流する。古くは小須恵こすえ村と称し、別に大須恵村があったという(蒲生郡志)。「輿地志略」では祖父川の東岸を下須恵村として一村に扱っている。

地名は古代須恵器生産に携わった人々が居住していたことに由来するといい、南西のかがみ山北東麓には県下最大級の須恵器窯跡群である鏡山古窯跡群があり、「日本書紀」垂仁天皇三年三月条にみえる「近江国の鏡村の谷の陶人」との関連を指摘する説もある。奈良東大寺領周恵すえ庄は当地に比定され、宝亀六年(七七五)三月二日の蒲生周恵庄解案(正倉院文書)によれば、僧法訓は買得した墾田・畠・林地を至急東大寺領として立券することを申請、また法訓の私用および同庄用に鍬三口が授けられた。暦応四年(一三四一)一一月一八日の妙行証状(同文書)に「すへ」とあり、年未詳の足子交名(今堀日吉神社文書)に「すへの左近太郎」がみえる。

須恵村
すえむら

[現在地名]五條市須恵一―三丁目

吉野川北岸、五条村東北に隣接する。集会(御霊宮本紀、桜井寺縁起)・統(三代実録)・陶器(太平記)とも表記する。須恵村北方天神てんじん山付近に奈良時代前期の瓦窯跡があり、昭和三三年(一九五八)には鵄尾断片を検出、同地東北、荒坂あらさかには同時代の瓦窯跡を保存する。須恵は陶部関係の古代地名か。

慶長郷帳には「すへ五条」とみえ、村高は四四五・五五石。五条二見藩(松倉重政)領。松倉氏の転封で元和二年(一六一六)幕府領(代官宗岡弥右衛門)となる。

須恵村
すえむら

[現在地名]須恵町須恵

須恵川の上流域に位置し、北は植木うえき村、東は上須恵村。「続風土記」は下須恵村とする。永和五年(一三七九)三月二三日九州探題今川了俊は中野入道・那知入道の両人に対して、預状の旨に任せて「須江庄半分」を島津上総介(伊久)代に沙汰し付け、請取(状)を取り進めることを命じている(島津家文書/南北朝遺文(九州編)五)

須恵村
すえむら

[現在地名]金光町須恵

南は黒崎くろさき(現倉敷市)との境をなす竜王りゆうおう山が北に張出し、西は佐方さがた村、東は大谷おおたに村。寛永備中国絵図では「坂田三ケ村」の内と考えられ、正保郷帳では佐方村の枝村に津村がみえ、当村にあたると思われる。元禄郷帳には須恵村とみえ、旗本蒔田領。同氏は文久三年(一八六三)の高直しで再び大名となり、浅尾藩となった。隣村大谷村とともに蒔田氏領内一七ヵ村中では小村であった。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では、高一五八石。

須恵村
すえむら

面積:一七・四一平方キロ

球磨郡中央部にあり、村域南端部を球磨川が西流し、その支流阿蘇川に沿って村域は南北に細長く広がる。東は多良木たらぎ町、南は免田めんだ町、西は深田ふかだ村、西と北は相良さがら村と接する。村面積の約七割が山林である。

昭和一〇年(一九三五)頃シカゴ大学の社会人類学者ジョン・F・エンブリー夫妻が、日本農村のサンプルとして当村を調査し、帰国後「SUXEMURA」を発表して村名が広く知られることになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の須恵村の言及

【小野田[市]】より

…南に本山半島が突出し,その北麓に須賀縄文遺跡があり,付近には大判山古墳はじめ遺跡が多い。小野田町は1920年まで須恵村といい,須恵器窯址が多く残っており,古代製陶の一中心地であった。旧藩時代は河口一帯に広く干拓地が造成され,製塩地および宇部炭田西部の石炭産地として栄え,有帆川河口は来往する石炭船でにぎわった。…

※「須恵村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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