出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
静岡県南西部の市。2005年4月旧掛川市と大須賀(おおすか)町,大東(だいとう)町が合体して成立した。人口11万6363(2010)。
掛川市南西部の旧町。旧小笠郡所属。人口1万2320(2000)。北部は小笠山に連なる丘陵地帯で,南部には遠州灘海岸平野が広がる。1956年横須賀町と大淵村が合体,大須賀町となった。中心の横須賀は,天正年間(1573-92)に大須賀康高が横須賀城を築城して以来の城下町で,1682年(天和2)西尾氏が2万5000石(のち3万5000石)で入城し,明治維新を迎えた。1707年(宝永4)の大地震で隆起するまで港もあり,交易の地としても栄えた。気候温暖な農業地帯で,北部丘陵地では茶とミカン,中部平地では水稲と温室メロン,海岸砂地ではイチゴなどの施設園芸が行われる。酪農組合を中心とする乳牛の飼育や養鶏なども盛ん。地場産業に小規模な繊維工業があり,近年工場誘致が進められている。西部丘陵地に横須賀城跡,中心部に豊作祈願の祭礼で知られる三熊野神社があり,南部海岸地帯は御前崎県立自然公園に属し,千浜砂丘が続く。国道150号線が通る。
執筆者:萩原 毅
掛川市中北部の旧市。1954年市制。人口8万0217(2000)。東海道の要所にあり,市域には古くから掛川宿,日坂(につさか)宿が置かれた。中心市街の掛川は城下町でもあり,商業が栄え,特産品として葛布(かつぶ)/(くずふ)が生産された。江戸時代に掛川藩主太田氏が生産を奨励,明治中期以降は壁布として輸出され,掛川の主要産業であったが,現在は衰退した。1802年(享和2)には藩が儒者松崎慊堂(こうどう)を招き,藩校徳造書院を開設している。また幕末から明治・大正期に報徳運動が遠州一帯で盛んとなり,中心となった大日本報徳社の本社が1911年に掛川に置かれた。市街地は逆(さか)川に沿って位置し,広い面積を占める丘陵や小笠山では茶の栽培が盛んで,南部の沖積地には水田が多い。近年は楽器,電気,化粧品,機械など大手メーカーの工場進出がみられ,工業化が著しく,JR東海道本線と天竜浜名湖鉄道の分岐点でもある。88年に東海道新幹線掛川駅が開業して以降,東部工業団地の造成,掛川城天守閣復元などが行われた。文学・伝説で有名な小夜(さよ)ノ中山,古墳時代の宇洞ヶ谷横穴,ハイキングコースでもある粟ヶ岳,ニューミュージックの拠点として知られた総合レジャー施設〈つま恋〉,掛川城御殿(重要文化財)などがある。93年12月には東名高速道路掛川インターチェンジが開業した。
執筆者:塩川 亮
遠江国の城下町,宿駅。古くから東海道の交通の要地として発達し,《延喜式》にみえる横尾駅はこの地に当たる。鎌倉期以降は懸川として,《吾妻鏡》や紀行文にしばしばあらわれる。戦国期には今川氏により城郭が築かれ,軍事的拠点ともなり,1568年(永禄11)には駿府を逃れた今川氏真が入るが,翌年徳川家康のため攻略された。90年(天正18),山内一豊の入封以降城下町の整備も進んだ。関ヶ原の戦後,松平定勝が入封して以後近世掛川藩となり,その後藩主の転封が続いたが,1746年(延享3)太田氏が5万石で入封して幕末に至る。近世宿駅としては,1601年(慶長6)に幕府により設定された。《宿村大概帳》によると,宿内町並東西8町,天保期(1830-44)の人口3443人,家数960軒(うち本陣2,旅籠屋30)であった。
執筆者:本多 隆成
掛川市南東部の旧町。旧小笠郡所属。人口2万1791(2000)。遠州灘に面し,菊川の下流域を占める。河川沿いの沖積低地は米作地帯で,千浜(ちはま)砂丘の発達した海岸部では野菜栽培とメロン,スイカ,イチゴなどの施設園芸が行われる。また北部山地では茶とミカンの栽培が盛んである。海岸部を走る国道150号線の沿道には化学工場をはじめ多くの工場が立地し,地場産業の鉄工業や繊維工業と共に町の経済を支えている。上土方嶺向(かみひじかたみねむかい)に戦国時代,徳川氏と武田氏の争奪の舞台となった高天神城跡(史)がある。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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