打上村(読み)うちあげむら

日本歴史地名大系 「打上村」の解説

打上村
うちあげむら

[現在地名]鎮西町大字打上

東松浦半島上場うわば台地の北部中央にある丘陵地の村。丘陵間には早田はやた丸野まるの今倉いまくら・打上・深田ふかたなどの集落が点在する。唐津藩政期は横竹よこたけ菖蒲しようぶ八床やとこ岩野いわの高野こうの加倉かくら石室いしむろの各村を含む打上組の大庄屋がいた。有浦家文書の寺沢志摩守より有浦大和守への知行状に「打上村」とあり、慶長絵図には「打上」とある。

先土器時代から縄文時代にかけての石鉾・石鏃などが出土する。地名について、神功皇后がこの地に来て髪を角髪みずらに「打上げ」男装したことによると伝える。

有浦家文書の康永元年(一三四二)一一月七日の源(佐志)勤譲状に「譲与 女子姫寿女所 肥前国松浦西郷佐志村内波井田、木佐野木」とあり、また同文書中に「被触訴候佐志熊太押領源三郎留遺領塩津留神崎両所剰所被拝領関東御下文候佐□惣領内狩倉・波伊田・蠣波伊田」とある。

打上村
うちあげむら

[現在地名]寝屋川市打上

交野かたの郡に属し、寝屋村南方にある。東部は生駒山地に連なる山地。中央部をほぼ南北に東高野街道が通り、北部の同街道沿いに弘法井戸がある。集落は東部山麓にあり同街道沿いに出屋敷がある。出屋敷から西へ浜道が通り讃良さらら堀溝ほりみぞ村に通ずる。上山近くには石棺の露出した石宝殿いしのほうでん古墳がある。「河内名所図会」には「八十塚、同村にあり、由縁不詳、八十は其数の多きをいふ」と記され、たか塚・ほり塚・くれ塚・から塚・なか塚などの塚名とともに地名が残り、各所にその片鱗をとどめる巨石がある。

天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)には「弐百五十四石五斗 金森五右知行 打上村」とみえ、注記に五四石一斗七升一合出米とある。

打上村
うちあげむら

[現在地名]関川村打上

北をあら川が西流し、米沢街道が東西に通る。東は辰田新たつたしん村、西は大島おおしま村に接し、街道沿いに集落が続く。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「垂水分打あかり村 下」とみえ、本納一石二斗七升で畠、縄高二二石二斗八合、家三軒とある。近世は村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領となり、のち幕府領に復す。

打上村
うちあがりむら

[現在地名]上石津町打上うちあげ

牧田まきだ川右岸にあり、北はしも村。慶長一二年(一六〇七)の時六ヶ村惣高覚(伊藤文書)によると高三七二石余、反別は上田五町一反余・中田六町九反余・下田四町四反余、上畑一二町七反余・中畑四町二反余・下畑二町四反余、うち茶畑七反六畝余。旗本高木三家領。元和四年(一六一八)の時・多良村川成内検目録(東高木文書)に打あかり村とみえ、田畑六反余の米高七石余・定米三石余。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)で当村一八一石余が高木貞勝(西高木家)に与えられている。

打上村
うちあげむら

[現在地名]浜北市寺島てらじま

長上ながのかみ郡に所属。横須賀よこすか村の東、寺島村の北東、天竜川馬込まごめ川に挟まれた沖積平野に立地する。寺島村から分村したとされ、延宝三年(一六七五)彦助ひこすけ堤の修築に伴う小天竜川(馬込川)の締切りによって行われた新田開発により成立。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報