寺島村(読み)てらじまむら

日本歴史地名大系 「寺島村」の解説

寺島村
てらじまむら

[現在地名]墨田区東向島ひがしむこうじま一―六丁目・堤通つつみどおり一丁目・墨田一―三丁目・京島きようじま一丁目・八広やひろ一―二丁目・同五丁目など

大川(隅田川)東岸に位置し、南は請地うけじ村・須崎すさき村。水戸方面への道が通る。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「寺嶋 八十丁 公田六丁」とみえ、葛西かさい御厨の領域に含まれている。地名の由来は蓮華寺が所在したためとも、葛西清重が二親菩提のため建立した法泉ほうせん寺が村内の多くを寺領として所有していたためともいう(風土記稿)。北条氏所領役帳には玉縄衆の行方与次郎分として「六拾貫文 葛西寺嶋」がみえる。

田園簿に寺島村とあり、田六〇七石・畑九三石、旗本多賀領。文化二年(一八〇五)の邑々書上帳(白鬚神社文書)によれば、延宝元年(一六七三)多賀氏により検地が行われ、高六〇五石余・反別一二六町六反余、ほかに宝暦一〇年(一七六〇)・同一三年検地の新田高三石余、渋江しぶえ(現葛飾区)に高一〇石余の入会持分地があった。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]浜松市寺島町・北寺島町きたてらじまちよう砂山町すなやまちよう

馬込まごめ川右岸、浜松城下の南に位置。南は龍禅寺りゆうぜんじ村。中世は浜松庄のうち。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に、室町院(暉子内親王)領のうちとして「寺嶋季俊、請所二千五百疋云々」とあり、季俊は領家であったと考えられる。現在広沢ひろさわ一丁目に所在する曹洞宗普済ふさい寺は正長元年(一四二八)当地に開創(当時は随縁寺と号した)され、永享四年(一四三二)富塚とみつかへ移転したとされている。天文一九年(一五五〇)一二月、竹庵珠栴が玉浦珠珍の画像を向宿むこうじゆくの授竜庵(現寿量院)へ安置した際に、画像への茶湯代として寺島のうち三貫文を寄進している(「珠栴寄進状」寿量院文書)。永禄九年(一五六六)二月一〇日、松平家康(徳川家康)が江馬時成に与えた引間ひくま本領のうちに「寺嶋百貫給共」がある(「松平家康判物写」紀伊国古文書所収藩中古文書)

寺島村
てらしまむら

[現在地名]岩沼市寺島

北流してきた阿武隈川は下流域で大きく蛇行し、最後は南東流して太平洋に入る。その河口左岸にあり、東は太平洋、西と南は阿武隈川に挟まれた細長い地域。北は早股はやまた村。東端を木曳堀(貞山堀)が南北に通り、浜海道が沿う。もとは河口の一孤島で、正福しようふく寺という寺があったことから寺島と称されたと伝える。正保郷帳では田二貫四二文・畑一七貫八四一文、水損と注され、新田七貫三五七文とある。寛文五年(一六六五)には当村と早股村のうち計三貫五〇〇文の地が岡崎三之丞の知行となっている(「伊達綱村領知黒印状」岡崎雄家文書)。「安永風土記」では田二〇貫八三九文・畑二五貫一四三文、人頭一一二人、家数一一〇・男女計八三一、馬四〇。船数は計一一一艘でうち本村分はかっこ船一七。

寺島村
てらしまむら

[現在地名]塩谷町上寺島かみてらしま下寺島しもてらしま

東房ひがしぼう村の北に位置。東西を東荒ひがしあら川・西荒川が流れ、下寺島の落合おちあいで合して荒川となる。「那須記」には宇都宮国綱に従った者に寺島城主和気越前守がみえ、宇都宮氏旧臣姓名書には寺島村の山崎頼三郎がみえる。慶安郷帳では高一七三石余、田方六三石余・畑方一一〇石余。元禄郷帳の高二七三石余。天保年間(一八三〇―四四)の改革組合村には上・下に分れ記載、上寺島村は高一八一石余・家数一一、下寺島村は高一〇三石余・家数一〇。一説では慶長年間(一五九六―一六一五)の分村とされるが、藩関係では延享四年(一七四七)の下野国村数覚帳に上・下がみえることから、江戸中期までには分村していたと思われる。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]山鹿市寺島

ゆるぎ(四一六・三メートル)の西麓に位置し、西部を岩野いわの川が南流、東は上吉田かみよしだ村、南は名塚なづか村・すぎ村、北は小坂おさか村と接する。「国誌」所載の天文三年(一五三四)六月二三日の菊池義宗書下で「寺嶋之内拾町」が、志々岐しじき一三町とともに合志勘解由左衛門に宛行われている。同一二年一〇月一六日の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「寺嶋 一所 弐十五町」とあり、年未詳の五条家知行分坪付(同文書)にも同様に記す。

寺島村
てらしまむら

[現在地名]富山市寺島

神通川下流西方、神通古じんづうふる川の河岸段丘上にあたる。東は田尻たのしり村、北は八幡やはた村、西は八町はつちよう村。村名はかつて神通川に囲まれて島状をなしていたこと、また布目ぬのめ真福しんぷく寺の寺地であったことに由来するという。守護代神保氏の被官であった国人寺嶋氏の出自の地と推測される(富山県史)。明応八年(一四九九)一二月一八日の道者売渡状(神宮文庫蔵輯古帖)にみえる「てらしま」は当地にあたるか。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。寛永一〇年の牛ヶ首用水在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に村名がみえるが、正保郷帳では八幡村に含まれて高付される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では、布目村の枝村新田として同村の東方八町にあり、高三三八石。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]糸魚川市寺島・寺島一―二丁目

糸魚川町の西端よこ町に連なる漁師村で、北陸道に沿い、西のひめ川対岸は須沢すざわ(現西頸城郡青海町)。姫川渡場であるため、永禄一〇年(一五六七)四月三日の上杉輝虎朱印状(蓼沼文書)によれば、「西浜之内、寺島村出之候」が蓼沼藤五郎に与えられ、越中口に対する備えとして軍役が課されている。慶長二年(一五九七)の河村検地では、田は本符七八石余・見出一一七石七斗余、畑は本符無・見出九斗余、屋敷二七軒で六石一斗余、塩浜二三口で一〇石九斗余とされ、うち見出のうち七八石が課税免除、居屋敷全部と塩浜の約三分の一が課税免除であった(糸魚川市史)正保国絵図に高三八〇石余とある。寛文七年(一六六七)の高帳では、本田地高三一四石二斗余のほかに、明暦四年(一六五八)の新田高七五石余があり、川役上銀一五〇匁が課され、村の構成員は庄屋二・本百姓一五・高持百姓五・無高百姓一四である(糸魚川市史)

寺島村
てらじまむら

[現在地名]浜北市寺島

長上ながのかみ郡に所属。中条なかじよう横須賀よこすか両村の東、天竜川と馬込まごめ川に挟まれた沖積平野に立地する。松平忠頼領郷村帳では高四五三石余、田一〇町九反余・畑四九町七反余。寛永三年(一六二六)から同九年まで武蔵岩槻藩主であった青山忠俊小林こばやし村に蟄居していた際、忠俊に扶持料として寺島村三三六石余を含む一千石が与えられた(秋鹿家文書)。正保郷帳では幕府領、田方五五石余・畑方二八一石余。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高三八一石余、幕府領、家数五七。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]長岡市寺島町・蓮潟はすがた一丁目

信濃川左岸堤内地にある。北は蓮潟村、南は小沢こざわ村・古正寺こしようじ村、東の信濃川対岸は長岡町渡里わたり町で、上杉時代に渡船場が置かれ交通の要地であった。天正村名考(温古之栞)に「島七十六軒」と伝えるのが当村。元和(一六一五―二四)の大水に川欠けとなり、一部の住民は川向いの地へ、一部は三郷屋みつごうやの本途地へ、一部は蓮潟村へ移ったといい、このため渡船場維持に不便を生じ、村民は時の領主堀直寄に具申し、廃止となった。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]藤枝市寺島

稲葉堀之内いなばほりのうち村の北西に位置し、北は瀬戸せと川を挟んで助宗すけむね村。志太しだ郡に属する。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高一四八石余、田中藩領。以後の領主の変遷は寛保二年(一七四二)幕府直轄領となるまでは谷稲葉やいなば村と同じと考えられる。明和七年(一七七〇)遠江横須賀藩領となり(「寛政重修諸家譜」、「西尾家譜」西尾家文書など)、幕末に至る。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]池田町寺島

池田いけだ村の東、稲荷いなり村の南に続く村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一四七・六六石が記される。正保郷帳によれば田方一二八石余・畠方一九石余。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)では、反別一一町五反余、うち畠地は二町一反余。家数三二(本百姓一四・水呑一八)、人数一七一(男八六・女八五)、牛一〇・馬一。

寺島村
てらじまむら

[現在地名]静岡市寺島

藁科わらしな川上流に位置し、南は赤沢あかざわ村。もと清沢きよさわ郷の一部で、分村の経緯と領主は赤沢村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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