戸部村(読み)とべむら

日本歴史地名大系 「戸部村」の解説

戸部村
とべむら

[現在地名]西区伊勢いせ町一―三丁目・老松おいまつ町・御所山ごしよやま町・戸部町一―七丁目・戸部本とべほん町・西戸部にしとべ町一―三丁目・西前にしまえ町二―三丁目・浜松はままつ町・藤棚ふじだな町一―二丁目・・宮崎みやざき町・紅葉ヶ丘もみじがおか境之谷さかいのたに中央ちゆうおう一―二丁目、中区野毛のげ町一―四丁目・宮川みやがわ町一―三丁目

東は海、北は入海そでヶ浦を隔て神奈川宿青木あおき町、西は岩間いわま町、南は太田おおた村に接する。南から東にかけて丘陵が続き、東南の崖下に野毛浦(現中区)があり、洲乾しゆうかん湊を隔て横浜村(現中区)を望む。

古くは「富部」とも記す。天文一二年(一五四三)二月三日付の北条家朱印状(県史三)に「戸部郷陣夫」とあり、同状が上原氏に伝存されていることから、上原氏が戸部郷の代官であったと思われる。同一六年の岩槻いわつき(現埼玉県岩槻市)攻撃の功賞として本領いち(現緑区)を安堵されるとともに北条氏康から戸部郷の知行を認められた。同一七年五月七日の北条氏康判物写(同書)に「当方ニ就可有住所、武州之内戸部之郷七十貫文之地進之候、可有御知行候」とある。

戸部村
とべむら

[現在地名]中区野毛のげ町一―四丁目・宮川みやがわ町一―三丁目、西区戸部町一―七丁目・紅葉もみじおか宮崎みやざき町・戸部本とべほん町・御所山ごしよやま町・伊勢いせ町一―三丁目・老松おいまつ町・中央ちゆうおう一―二丁目・西前にしまえ町二―三丁目・西戸部にしとべ町一―三丁目・浜松はままつ町・藤棚ふじだな町一―二丁目・境之谷さかいのたに

東は海、北は入海のそでヶ浦を隔てて神奈川宿青木あおき(現神奈川区)、西は保土ほど宿岩間いわま(現保土ヶ谷区)、南は太田おおた村に接し、村の東南崖下の野毛浦と洲乾しゆうかん湊を隔てて横浜村を望む。

戸部村
とべむら

[現在地名]長野市川中島町御厨みくりや 戸部

西は今井いまい村・はら村、南は小森こもり村・東福寺とうふくじ村、北は中氷鉋なかひがの村・田牧たまき村、東は下布施しもぶせに接しており、村内に上布施かんぶせ村が全村入り混じっている。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)には「千弐百六拾九石弐斗九升六合 戸部村」とある。

武田氏滅亡の後、上杉景勝は香坂能登守に戸部の地を宛行っている。元和二年(一六一六)岩城貞隆領、同八年仙石氏上田領、宝永三年(一七〇六)松平氏上田領、享保二年(一七一七)幕府領、同一五年再び上田領飛領地となって明治に及んだ。

戸部村
とべむら

[現在地名]南区呼続よびつぎ町・戸部町・曾池そいけ町・大磯おおいそ通・城下しろした町・北内きたうち町・塩屋しおや町・千竈ちかま

さくら村の西に位置し、村の西には山崎やまざき川が流れる。東端部を東海道が南北に通じ、街道筋に集落が開ける。「寛文覚書」によれば、田が一六町一反余、畑が一二町五反余、塩浜一四町八反余、塩屋は九軒と記録される。「地方古義」に「戸部村塩浜」として「二反一畝十五歩ニ付上納米三斗二升五合」が書上げられ、西の海岸に新田が築かれるに従い塩田は激減した。「徇行記」に「今戸部村ト笠寺村ノ間街道並木ヨリ一町ホト東北ニアタリ丘上ニ椋大樹一株アリ、此処帯刀宅地ノ址ナリ、又同村ニ帯刀郭ト称シ塩浜五丁ホトアリ」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報