戸口村(読み)とうぐちむら

日本歴史地名大系 「戸口村」の解説

戸口村
とうぐちむら

[現在地名]龍郷町戸口とぐち

中勝なんがち村の南東に位置し、集落は大美おおび川と戸口とぐち川の合流域にあり、すぐ南東は河口となっている。「南島雑話」によれば、戸口村から名瀬勝なぜがち(現名瀬市)へ越える坂は難所であった。古見こみ間切瀬名せな方のうち。地名はト(海)クチ(入口)の意であろうという。下戸口のヒラキやま遺跡では七―八世紀頃の中国の青磁白磁や類須恵器破片、一一―一二世紀頃にかけての青磁・白磁の破片や琉球焼破片などが出土しており、中国または琉球との交流が想定される。源平合戦に敗れた平家の落人が喜界きかい島から大島に渡海したと伝え、平資盛は諸鈍しゆうどん(現瀬戸内町)を拠点にひぎや間切・屋喜内やきうち間切、平有盛は浦上うらがん(現名瀬市)を拠点に名瀬なぜ間切・笠利かさん間切、そして平行盛は戸口を拠点に古見間切・住用すむゆう間切をおさえたという。

戸口村
とぐちむら

[現在地名]坂戸市戸口

和田わだ村の南にあり、東境を高麗こま川、北西境をくず川がともに北東へ流れる。天正一二年(一五八四)三月二一日の北条家印判状(三田文書)は戸口の小代官・百姓中に宛てられ、正木棟別麦のうち陣衆へ与える初納五俵を四月二八日までに川越へ届け大道寺政繁の代官に渡すよう命じている。近世には入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)九月島田庄五郎(重利)に高麗郡戸口村三二五石余が宛行われた(記録御用所本古文書)

戸口村
とぐちむら

[現在地名]佐久間町戸口

戸口山の北東、東流したのち蛇行して南流する天竜川右岸にある。豊田とよだ郡に属する。村名は渡口とも記され、対岸大井おおい村の西渡にしど舟戸ふなととを結ぶ渡船場があった。正保郷帳では渡口村とあり、永高八貫九九三文、幕府領。うち四〇〇文が船越免、はへ山の注記がある。延宝三年(一六七五)検地帳(片桐家文書)では畑六町二反余・茶畑三町三反余・屋敷四反余。元禄二年(一六八九)になって本年貢の改出があり、「六尺壱分之弐間竿」で三〇〇歩一反という積りで検地を実施している(「新田改帳」片桐家文書)

戸口村
とくちむら

[現在地名]栄町戸口

茅原ちはら村の西にあり、西は岩淵いわふち村と接する。集落南端に位置する稲荷社付近からは平安期の須恵器が出土。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)には毛付一〇八石四斗余・荒七七石七斗余とある。寛永五年(一六二八)創設の溝口氏三分家の知行所が村内一部にあり、正保二年(一六四五)には溝口宣秋分一一石七斗余(「三分家知行目録」新発田市立図書館蔵)、同宣俊分五石五斗余(「溝口内記領分郷村高辻帳」同館蔵)であった。その後、宣秋分はなくなり、宣俊分も小栗山こぐりやま(現見附市)への越石とかわった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報