戸(律令制度)(読み)こ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸(律令制度)」の意味・わかりやすい解説

戸(律令制度)

律令(りつりょう)制度上、一般公民を支配する最小の行政単位。1里(り)を50戸で編成するという原則で実施された。各個人が戸ごとに編成され、戸籍に登録された。この戸籍をもとに班田収授法に基づいて口分田(くぶんでん)が支給され、また調庸(ちょうよう)などの租税が賦課されることになっていた。

 この戸の性格については、当時の家族構成をほぼ表現しているものとする実態説と、法制上50戸1里の原則で編成したもので、かならずしも家族構成を表現しているものではないとする擬制説とがある。実態説では、戸の内容からみて、数世帯を含む複合家族であるとみており、一般にはこれを家父長制的世帯共同体として理解している。一方、擬制説をとる学説のなかには、戸の内部はいくつかの単婚小家族に分かれており、この単婚小家族が奈良時代の家族の実態であったとみる学説もある。

 戸は、その筆頭者として戸主がまず記載され、令の規定では戸主は家長をもって任ぜられた。田宅私財、奴婢(ぬひ)などの売買にあたっては、この家長=戸主の許可がなければ、戸の成員がかってに行うことは許されないたてまえであった。しかし、実際に当時の家長がもっていた権限はさほど強いものではなかったらしく、家長権はきわめて未成熟であったとする学説が多い。戸に関する直接的な史料としては、六年一造の戸籍と毎年作成される計帳とがあって、8世紀の戸籍としては下総(しもうさ)、美濃(みの)、筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)のものが残っており、計帳は山背(やましろ)、越前(えちぜん)、大和(やまと)(京)のものが残っている。これらの戸籍、計帳にみえる戸は、1戸当り15~20人前後からなっていて、平均3、4人の成年男子が含まれている。

 わが国の戸の制度は中国の律令法を継承したものであるが、その成立時期についてはかならずしも明確ではない。『日本書紀』によれば、6世紀代の屯倉(みやけ)ですでに人数と戸数とを計上している例があり(白猪(しらい)屯倉)某戸と名のる氏も存在するので、6世紀ころから、渡来人を中心に戸を数える制度が始まったらしいといわれている。また50戸で里とする制度も、7世紀中葉にはあったらしく、飛鳥(あすか)京出土の7世紀中葉と思われる木簡には「白髪部五十戸」と記したものがみえる。このような戸の制度は8、9世紀を通じて行われたが、10世紀ころから実態を伴わなくなっていったらしい。

[鬼頭清明]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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