成川村(読み)なるかわむら

日本歴史地名大系 「成川村」の解説

成川村
なるかわむら

[現在地名]東洋町野根のね 名留川なるかわ

葛籠つづら村の北に位置し、野根川支流の樫地かしじ川扇状地の下方斜面に形成された集落。野根川対岸は内田うちだ大斗おおとの両村で船渡しがあった。野根郷に属した。近世後期以降名留川と記す。野根川の氾濫による被害を受けることがなく、谷水も得やすいため最も古く開けた村で、野根郷内最古の文書を残す池山いけやま寺があった。

天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳には「成川村」とあるが、近世の成川村の地と思われる総地高は二三町一反余。うち田方が六五パーセントもあり、山間の村にしては高い比率である。一部切畑などを除いてほとんどが給地となっている。村内を流れる樫地川が背後山地から多量の土砂を押流し、野根川沿いに堆積したので、そこが新田開発の舞台となった。

成川村
なるかわむら

[現在地名]紀宝町成川

鮒田ふなだ村の東、熊野川下流左岸にある。現在は成川―新宮間に国道四二号の熊野大橋、紀勢本線の鉄橋が架かる。永徳二年(一三八二)一〇月一九日の熊野山総神官等注進状(熊野速玉大社古文書古記録)に「船田・鳴河同日合戦」とあり、成川は「鳴河」と記されている。応永一八年(一四一一)二月一一日の檀那去渡状(米良文書)にも「鳴河」の地名がみえる。中世は四箇しか庄の内であったと考えられる。四箇庄については「紀伊続風土記」に「四箇荘旧誰の領有なるか今知るへからす、大抵新宮社家の領する処ならむ」と記し、また「四箇村の中鵜殿成川の二村、天正慶長の頃、鵜殿氏の領する所にて、堀内氏盛なりし時、鵜殿氏親族となりて其族下に属す」と記す。

成川村
なるかわむら

[現在地名]吾北村小川東津賀才こがわひがしつがさい 成川

東津賀才村の北、東流する上八川かみやかわ川支流谷間の村で、北は西川にしがわ村、西は樅山もみのきやま村。集落は標高五〇〇メートル付近に立地。南の津賀才方面から山を越えて開拓されたもので、天正一八年(一五九〇)の津加才地検帳に、津加才分成川名成川村として九〇筆二九町九反四五代一歩(うち山畑一〇町九反四六代四歩・切畑一三町八反四三代三歩)、津加才分花木名花木村として三一筆一三町四反三二代五歩(うち山畑四町三反五代・切畑七町四反四七代四歩)が記される。

成川村
なりがわむら

[現在地名]鴨川市成川

南小町みなみこまち村の北、北小町村の西にあり、加茂かも川とその支流山入やまいり川の流域に立地する。北は上総国望陀もうだ香木原かぎはら(現君津市)。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高七四六石余(うち田方五一九石余)、里見氏給人領。正保郷帳では高六一五石、うち田方四〇一石・畑方二一四石、幕府領元禄郷帳では高六四五石余。元文村高帳でも幕府領。天明五年(一七八五)館山藩領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・天保村高帳など)。旧高旧領取調帳では高七〇八石余。

成川村
なるかわむら

[現在地名]阿蘇町内牧うちのまき

北は内牧町、西は駄原だばる村、北東は黒流くろながれ村に接する。「国誌」では高一八九石余と記す。天保九年(一八三八)の村々調では田畑二四町、高二五五石・御出物成一二七石、竈数二一・人口七七、牛一三・馬二三である。

成川村
なるかわむら

[現在地名]古座川町成川

西川にしかわ村の東、古座川上流に位置する小村。山が多く、民家はその間に散在する。慶長検地高目録によると村高一三五石余、小物成五・四〇七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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