慈恩寺村(読み)じおんじむら

日本歴史地名大系 「慈恩寺村」の解説

慈恩寺村
じおんじむら

[現在地名]桜井市大字慈恩

三輪山南麓、伊勢街道北側に所在。貞治三年(一三六四)慈恩寺山の巨樹を伐採、法隆寺湯殿の用材として搬出している(嘉元記)。伊勢参宮(あるいは長谷寺詣)の盛行に伴い、通行税を目的とする慈恩寺関が設けられた。文明二年(一四七〇)六月一〇日、萩原はぎはら(現宇陀郡榛原町大字萩原)をめぐって伊勢国司の被官と興福寺六方が争ったとき、伊勢街道の初瀬・鉢伏はちぶせ峠両関が閉鎖され、伊勢参宮の人々が慈恩寺関で留められた(大乗院雑事記)。「国民郷士記」には、中世、慈恩寺左衛門が当村山城に拠ったと記す。

慶長郷帳にみる村高六〇八・五二石。慶長五年(一六〇〇)から織田有楽(長益)領。元和七年(一六二一)幕府領(代官中坊秀祐)となる。延宝検地で村高は七四四・九七四石となる。宝暦一三年(一七六三)以降清水御領知、寛政七年(一七九五)以降幕府領、文政七年(一八二四)以降再び清水御領知、安政二年(一八五五)以降また幕府領と変遷した。

慈恩寺村
じおんじむら

[現在地名]岩槻市慈恩寺

上野うえの村の北東、表慈恩寺おもてじおんじ村に南、裏慈恩寺うらじおんじ村に北を囲まれて所在し、平安時代に創建されたと伝える天台宗慈恩寺と集落は慈恩寺台地上にある。中世には当地一帯は太田おおた庄に属した(永徳元年一〇月七日「足利氏満補任状」明治百年大古書展出品目録)。江戸時代初期には表慈恩寺村裏慈恩寺村を合せて慈恩寺村といったが、延宝八年(一六八〇)頃までに三村に分立、当村は慈恩寺の朱印地一〇〇石(境内地田畑)からなっていた。なお一〇〇石は境内地六〇石・境内外田畑四〇石で、境内外田畑は地続き上野村域にあったが、上野村の高からは除かれ、慈恩寺村一〇〇石として把握されていた。

慈恩寺村
じおんじむら

[現在地名]植木町米塚よねつか

色出しきで川を隔てて伊智坊いちぼう村の北に位置し、西は色出村、東は村、北は大塚おおつか村に接する。来民くたみ町道が通り、隈府わいふ町道が分岐する。山城やましろ溝・平島ひらしま溝が流れる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田八町五反四畝余・畠一〇町一反一畝余、分米一五四石三斗余、名請人延数三八人で、加賀・図書・将監・内記・治部・兵部・采女・外記・民部など中世的名乗の者が多く、しかも伊智坊村の名請人と共通の名前が多い。

慈恩寺村
じおんじむら

[現在地名]安土町慈恩寺

常楽寺じようらくじ村南西の平地に位置し、西は長田おさだ(現近江八幡市)。地名はかつて地内にあった六角氏菩提寺慈恩寺に由来する。東老蘇ひがしおいそ奥石おいそ神社の神輿天井板には「応永三拾年卯月十八日 慈恩寺 高木金四郎」の墨書銘がある。小字金剛寺こんごうじ微高地は古くから寺院跡とされていたが、土塁や堀地名が残ることから中世城館跡とも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報