悟真寺(読み)ごしんじ

日本歴史地名大系 「悟真寺」の解説

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]長崎市曙町

浦上うらかみ川河口部の右岸側にある。終南山光明院と号し、浄土宗。本尊は唐仏の阿弥陀如来。筑後久留米くるめ(現福岡県久留米市)善導ぜんどう寺の聖誉玄故(寛永三年没)キリシタンの盛んなことを嘆き、稲佐いなさ山中腹の洞窟に隠れて念仏弘通に努めていたが、慶長三年(一五九八)長崎奉行寺沢志摩守の許可を得て山里やまざと村の庄屋一徳とともに堂宇の建立を行い、仏寺再興の先駆けとなった。善導寺を本寺とし、終南山悟真寺の寺号を受けた。本堂の本尊仏は明の阿弥陀三尊坐像で、内仏は恵心の作という阿弥陀仏。同七年長崎にいた明の朱印船貿易家の欧陽華宇・張吉泉により長崎在住の明人の菩提所となり、両人が当寺の開基とされる。創立は元和(一六一五―二四)初年とも伝え、幕府から一〇〇間四方の墓地の朱印を得たという(長崎市史)。また集会場の性格を有したため長崎華僑社会を形成する場であった。

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]八代市妙見町

中宮ちゆうぐう川左岸の山麓にある。中宮山と号し曹洞宗。本尊釈迦如来。元中七年(一三九〇)良成親王の命により菊池武朝が征西将軍懐良親王菩提寺として建立したと伝える。当地は妙見中宮の社僧中宮山護神ごしん(天台宗)の跡地。「国誌」によれば、開山は大原孚芳、寺名は親王の法名悟真大禅定門による。開山より一二四代のうち本住は二三代で、末寺八〇余ヵ寺から輪番住職を務める輪住制がとられ、八〇世実叟元英のとき七堂伽藍が建てられたという。

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]鈴鹿市白子本町

白子しろこ集落の北部にあり、終南山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。応永一八年(一四一一)良賢により創建され、のち浄誉が南方の山中やまなかから現在地に移したという。京都の知恩ちおん院末寺として格式高く、戦国時代二度にわたり香衣勅許その他の記録がある。「お湯殿の上の日記」永禄五年(一五六二)一一月二日「ちおんゐんより、かうえ(香衣)の事申。ちよくきよあり。いせのくにこしん(悟真)寺日(誉)と申物なり」とある。

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]豊橋市関屋町

孤峰山と号し、浄土宗。吉田三ヵ寺の一。もと京都知恩院末。寺伝によると貞治五年(一三六六)善忠寂翁の開山、浄業院悟真寺と称した。永正二年(一五〇五)牧野古白今橋いまはし城を築くに際して現地に移った。旧地に鎮護の社を残したが、これが現在の吉田神社である。御津みと神社(現宝飯郡御津町)蔵、応永一六年(一四〇九)一二月二九日銘の大般若経奥書に「於三州今橋悟真寺住持比丘慈智翁」とある。

慶長一九年(一六一四)に全焼して古記録を失ったという。

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]三戸町同心町 諏訪内

同心どうしん町の南東、馬喰町ばくろうまち通に位置する。終南山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「悟真寺 浄土宗、盛岡大泉寺末寺、終南山光明院、二人扶持、徒開山鉄堂上人寛永年中、当住寺寛政三年迄十七代」とある。藩政期末の南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)によれば寺領一〇石を給されていた。

悟真寺
ごしんじ

[現在地名]榛原町大字自明

自明じみよう集落北方山麓にある。自明山と号し、曹洞宗。本尊聖観音菩薩立像。寺伝によれば、宝徳三年(一四五一)四月一〇日道喜阿轍が創建、兵乱で七堂伽藍を焼失したが、文禄四年(一五九五)賤ヶ岳の七本槍の一人として功のあった加須屋助右衛門が再興したという。文政年中(一八一八―三〇)山崩れにより、諸堂の多くは土中に埋没し、寺地も半減したが、現在寺地近くに大門だいもん法夕ほうしやく法雲寺ほううんじなどの小字が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の悟真寺の言及

【梵鐘】より

…一つは竜神(蛇)と関係するもので,三井の晩鐘の説話や,《道成寺縁起》など,沈鐘伝説ではないものにも多くみられる。肥後八代(熊本県八代市)悟真寺の大原禅師は,唐で寺の大火を消し,その礼として鐘を二つもらった。しかし,その一つは帰途で海に沈み,いま一つも竜神が欲しがったので門前に竜火がかかったという。…

※「悟真寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」