志津村(読み)しづむら

日本歴史地名大系 「志津村」の解説

志津村
しづむら

[現在地名]西川町志津

寒河江さがえ川の支流大越おおごし川に注ぐ石跳いしぱね川流域にあり、標高七二〇メートル、月山南麓に位置する。弓張ゆみはり平の北にあり、近くに五色ごしき沼・地蔵じぞう沼などが散在する。慶長一七年(一六一二)六十里越山内で、武蔵熊谷くまがや(現埼玉県熊谷市)の行人が山賊に襲われた。そこで領主最上氏は翌一八年砂子関すなごせき村から志津に番所を移し、番卒を大井沢おおいさわ月山沢つきやまざわ・砂子関各村の百姓中から選び、一人に米五斗入三俵ずつを与えた。のち湯殿山参詣行人が増えると、扶持米支給を止めて口留番所とし、行人一人から一五文ずつ取ることが許され、七人が日替りで役を勤めた(志津区有文書)。白岩領は最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領となるが、一六ヵ村の中に当村は見当らない(西村山郡史)。寛永一五年(一六三八)以降幕府領。明暦(一六五五―五八)頃志津村として成立した。寛文一三年(一六七三)の検地では高五七石余、うち高四五石余は前々鹿野畑無反別・永荒引で、残高一一石余は皆畑である(明治五年「村明細帳」長井政太郎氏旧蔵文書)

志津村
しづむら

[現在地名]南濃町志津

徳田とくだ村の北西、津屋つや川右岸にあり、北西は志津新田。鎌倉期の刀工志津三郎兼氏が当地鍛冶屋谷かじやだにに住したと伝え、兼氏ゆかりの鎗掛やりかけ岩がある。兼氏は大和から当地に移り、関の刀工金重の婿となり、関刀鍛冶の地位を確立したと伝える。文亀二年(一五〇二)と推定される四月一三日銘の多岐たぎ神社(現養老郡養老町)蔵懸仏裏面墨書銘に多芸たぎ庄志津郷とみえる。慶長郷帳多藝たぎ郡内に村名がみえ、高七六五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。

志津村
しつむら

[現在地名]倉吉市志津

尾田おだ村の南西天神野てんじんの台地上に位置する。北は福富ふくどみ村・沢谷さわだに村。拝領高は二三九石余、本免は四ツ九分。倉吉組士高木氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二六〇石余、竈数三〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九二石余、竈数二七。藪役銀九八匁八分が課されていた(藩史)。宝暦二年(一七五二)には当村分領の草山をめぐり当村・福本ふくもと村・沢谷村などのきた谷一一ヵ村と、小鴨おがも谷・矢送やおくり谷・みなみ谷に属する大鳥居おおとりい村・安歩あぶ(現関金町)中河原なかがわら村など一六ヵ村とが争っている。同所は前々からの論所ということで奉行の見分を仰いだところ、南西藤井谷ふじいだにの「横道八つ塚迄うね道」を限り、「野井倉道之出合」と藤井谷の「横道南之平」で画される地が前出諸村の入会とされた(在方諸事控)

志津村
しづむら

[現在地名]色麻町志津

保野ほの川中流南側に位置する扇状地形の細長い村で、端郷鷹巣たかのすが村の西端にある。南と東は黒沢くろさわ村、西は小栗山こぐりやま村に接する。村名は水質がよく諸所に泉が湧くことに由来し、隣村清水きよみず村と区別した名称という(宮城県地名考)小野田おのだ道が村の中央部を南北に走り、出羽三山信仰の道として当時の賑いを示す古碑が路傍に並ぶ。塚田つかだ塚前囲つかまえがこいの地名があり、一里塚の在所を示す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報