心覚(読み)こころおぼえ

精選版 日本国語大辞典 「心覚」の意味・読み・例文・類語

こころ‐おぼえ【心覚】

〘名〙
① 思い当たること。記憶に残っていること。身に覚えがあること。心当たり。
※俳諧・西鶴大矢数(1681)第三九「長生殿はどっちの方じゃ 心覚唐土までも行旅に」
② 心に徹し覚えこんでいること。腕に覚えのあること。
浮世草子武道伝来記(1687)五「是に身共が後(うしろ)づめ、心覚(オボヘ)長刀なりと脇を払はせ給ふ働き」
③ 忘れないために目印をつけたり、記しておいたりすること。また、そのもの。
※虎明本狂言・腹不立(室町末‐近世初)「みみずの、のたくったやうな事や、とりのふんだあし跡のやうな事を致て、こころ覚へを仕る」
※王朝詞華集日記(1971)〈竹西寛子〉「いつまた終るともしれないささやかな作業のことを、折をみて心おぼえにでもと思っていた」

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「心覚」の意味・わかりやすい解説

心覚
しんかく
(1117―1180)

平安末期の真言(しんごん)宗の僧。仏種房(ぶっしゅぼう)と号する。参議平実親(たいらのさねちか)の子。初め三井園城寺(みいおんじょうじ)で出家受戒し天台宗を学んだが、三論(さんろん)宗の珍海(ちんかい)との宗論に敗れ、その後は密教に入り醍醐寺(だいごじ)で小野流を学び、諸山で修練苦行すること25年に及んだという。名利を求めず菩提(ぼだい)を願って勉学研鑽(けんさん)し、『別尊雑記』など多くの著作を残した。高野山(こうやさん)に登ってから一寺を建立し、常喜院(じょうきいん)と号して住した。東密と台密を兼ね合わせた事相(じそう)の派をたて、その一派を常喜院流という。

[平井宥慶 2017年8月21日]

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朝日日本歴史人物事典 「心覚」の解説

心覚

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:永久5(1117)
平安後期の真言宗の僧。字は仏種房。号は宰相阿闍梨。密教の白描図像研究家。没年は治承4(1180)年と寿永1(1182)年の2説がある。初め天台宗の三井寺で受戒したが,宮中での三論宗珍海との論議に敗れて真言宗に改宗したと伝える。その後高野山に登り,保元1(1156)年に兼意より灌頂を受けたほか,実運や宝心について真言密教の奥義をきわめ,白描図像の転写・収集に努めた。後年その成果を『別尊雑記』にまとめたが,これは兼意ら4師の説を比較検討し,自ら集めた珍しい白描図像を加えたもので,密教図像集中の白眉である。<参考文献>真鍋俊照「心覚と別尊雑記について」(『仏教芸術』70号)

(矢島新)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「心覚」の解説

心覚 しんかく

1117-1180/82 平安時代後期の僧。
永久5年生まれ。真言宗。園城(おんじょう)寺で天台をまなんだが,東大寺禅那院の珍海との宗論に敗れ,醍醐(だいご)寺で賢覚,実運に密教をまなぶ。のち高野山で兼意より灌頂(かんじょう)をうけ,常喜院を創建した。治承(じしょう)4/寿永元年6月24日死去。64/66歳。京都出身。俗姓は平(たいら)。字(あざな)は仏種房。通称は宰相阿闍梨。著作に「別尊雑記」「諸尊図像」など。

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世界大百科事典(旧版)内の心覚の言及

【別荘】より

…日常居住する住宅とは別に,保養,避暑,避寒や自然的な環境のなかでの遊楽などを目的として建てられた住宅で,古くは別業(べつぎよう),別墅(べつしよ),別庄(べつしよう)などとも呼ばれた。別荘を建てる習俗はかなり古くからあり,ローマ帝国や古代中国などの皇帝・貴族がすでに多くの別荘を建てていた。古代ローマではローマ東方の高地にあるティボリや地中海のカプリ島にウィラと呼ばれる別荘が営まれ,中国では長安の東にある温泉地驪山(りざん)などが皇帝の別荘地として有名である。…

※「心覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」