徳和村(読み)とくわむら

日本歴史地名大系 「徳和村」の解説

徳和村
とくわむら

[現在地名]赤泊村徳和

赤泊村の北東、南は海に臨み、東は腰細こしぼそ村、北東は山田やまだ村、北は上川茂かみかわも村・下川茂村に接する。緩やかに広がる丘陵台地上に集落が点在する。丘陵の傾斜は比較的なだらかで、段丘状に広い台地をなし、おきとよばれるまとまった水田地帯をもつ。村内各所に大きな湧水があり、耕地は豊かな湧水と溜池で養われる。浦津うらづ小熊おぐま・徳和浜・清水しみず鍛冶屋かじや草木くさぎ山寺やまでら畝立うねだちひがし瓜生うりゆう浅生あそう東光寺とうこうじ横山よこやま北袋きたぶくろと第二次世界大戦後の開拓である仏供石ぶくいしの各集落からなり、集落名と同じ通称をもつ家があり、各々同じ社や堂などを祀る同族の家を周辺にもつ者が多い。天正一七年(一五八九)上杉景勝に滅ぼされた本間三河守の三人の遺児と伝える三軒の本間氏や三河守家老と称する家がある。これらの集落は江戸期には地域的に小熊組・横山組・山寺組・草木組・清水組の五組に分れ、各組から一人ずつ組頭が出て村政に参加するなど、組の独立性が強い。

徳和村
とくわむら

[現在地名]三富村徳和

下釜口しもかまくち村の北西に位置し、笛吹川上流の右岸、支流徳和川の源流域に立地する。北に乾徳けんとく山を背負う山間地に集落が展開する。永禄六年(一五六三)一〇月吉日の恵林寺領穀米并諸納物帳には公事地として「とくわ与三郎」とみえ、検地高四五〇文・諸役分一三一文・踏出増分三一九文とある。なお元徳二年(一三三〇)恵林えりん(現塩山市)を開山した夢窓疎石が当地から乾徳山に登り、一夏面壁の修行を行ったと伝承されるが、「夢窓国師年譜」には笛吹川上流に龍山りようざん庵を結庵したとあるのみで、その記録はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報