弥勒町(読み)みろくまち

日本歴史地名大系 「弥勒町」の解説

弥勒町
みろくまち

[現在地名]佐倉市弥勒町

間之あいの町の東に続き、東西に延びる両側町。成田道の間の宿で、佐倉六町の一(佐倉風土記)。地元では古くは小笹こざさ村と称したと伝える。「寛文朱印留」に弥勒村、大久保忠朝時代の佐倉絵図(小田原市立図書館蔵)に弥勒町とみえる。元禄郷帳でも弥勒町として高付され、高四二石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高四六石余、夫役永一〇七文で人馬役御免であった。享和期(一八〇一―〇四)の佐倉七牧付村々高帳などによれば柳沢やなぎさわ牧の賄役村で、勤高四六石余。幕末には佐倉町寄場組合に属した。

弥勒町
みろくちよう

[現在地名]静岡市弥勒一―二丁目・南田町みなみたまち

安倍あべ川下流左岸、駿府城下の西端で、東海道の同川渡河地点に位置する。古くは河原であったが、正保年間(一六四四―四八)駿府城下堤添川越つつみぞいかわごし町にいた山伏弥勒院が開発したという(駿河記)幕府領として幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳など)。元禄郷帳では高八石余。旧高旧領取調帳では幕府領一二石余。享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳に安倍川越役郷とある。川高札場があり、対岸手越てごし村とともに川会所設置されていた。川会所役人は問屋三・川番三・年番肝煎二・組頭一八・瀬踏三・川越人足一三一(以上、宿村大概帳)。川越人足は本通川越ほんとおりかわごし町・新通川越しんとおりかわごし町・堤添川越町が勤めた(駿府広益)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報