庭田村(読み)にわたむら

日本歴史地名大系 「庭田村」の解説

庭田村
にわたむら

[現在地名]豊田町大字庭田

山山頂西側から東北方に延びる尾根の帯状丘陵地に位置する村で、華山源流普済寺ふさいじ(現山田川)が村の東北側を流れる。北西鷹子たかのこ村、北は八道やじ村、東北は矢田やた村に接し、東南江良えら阿座上あざかみ両村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。

慶長五年(一六〇〇)と同一五年の検地帳などでは本郷に含まれたらしく詳細は不明。西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に庭田村とあり、同じく慶安三年(一六五〇)には庭田村・小倉おぐら村の二村立となり、同五年には華山山頂側の小倉村はなく、以後小倉村を併せて庭田村と称する。

庭田村
にわだむら

[現在地名]南濃町庭田

徳田とくだ村の南西にある。徳田谷の谷筋をのぼって二之瀬にのせ越を越えると伊勢国に至る。弘治二年(一五五六)九月二〇日の斎藤高政安堵状(東高木文書)に庭田郷とみえ、高木貞久は同郷など六郷を高政(義龍)より安堵されている。慶長郷帳では海西かいさい郡内に村名がみえ、高一三三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田七七石余・畑五一石余、山年貢五石。元禄郷帳でも同藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、田一一町七反余・畑一八町二反余で高四〇二石余、家数八〇・人数三三〇、馬一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報