広川村(読み)ひろかわむら

日本歴史地名大系 「広川村」の解説

広川村
ひろかわむら

[現在地名]平塚市広川

北を金目かなめ川が流れ、東は入野いの村、北と西は片岡かたおか村、南は公所ぐぞ村に接する。中央を南北に伊勢原いせばら道が通る。中央北寄りの五領ごりようだいは鎌倉権五郎景政の城跡と伝えられる(風土記稿)

嘉元二年(一三〇四)三月一二日の関東裁許下知状(県史二)に「弘河郷」とみえ、鎌倉鶴岡八幡宮の供僧良印により正安二年(一三〇〇)以降の供米が未進であるとして地頭備前入道定証が訴えられている。定証の代官定覚は当地の年貢米往古より農民が直接八幡宮に納めていると反論したが、正安元年一二月三日の下知状に「下地為地頭進止」とあることから地頭側の敗訴となり、地頭代の責任で未進分を弁償するよう判決が下されている。定証は南北朝内乱初期に没落したらしく、暦応二年(一三三九)四月五日の足利尊氏寄進状(県史三)によれば「弘河郷備前入道跡地頭職」などが鶴岡八幡宮へ寄進されている。小田原衆所領役帳には布施善三「九拾八貫九百八拾五文 中郡広川」とある。天正一五年(一五八七)七月晦日の北条家定書写(県史三)によれば、「広川」など相武の領国内各郷の小代官・百姓中に対し、一五歳以上七〇歳以下の者のうちから人を選び、八月晦日までに弓、二間以上の長さの鑓、鉄砲のいずれかの武器を持たせ、また武者に見えるよう「腰さし類之ひらひら」したものをつけて用意し、当郷では四人を出すよう命じている。

広川村
ひろかわむら

[現在地名]厳木町大字広川

作礼さくれい山山系の山嶺と背振せふり山地の山嶺の間の高原性の平坦地。やま郷の一。川有治かわうじ山・仁田にた山・重岩かさねいわ山などがあり、村中厳木川上流もり川が通り、その支流アワセ川・井上いのうえ川・川久保かわくぼ川・妙志みようし川などが流れる。

慶長絵図に「天川ノ内 広川村」と記す。

広川村
ひろかわむら

[現在地名]加須市戸川とがわ

西はてら谷戸やど村、南は下谷しもや村と接している。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。当地は元和七年(一六二一)から開発が進められ、寺ヶ谷戸新田として村立てされたが、慶安元年(一六四八)南北に縦断する道を境に東側が広川村とされた(松村家文書)。元禄郷帳には寺ヶ谷戸枝郷として村名がみえ、高二五三石余。甲斐甲府藩領と旗本四家の相給で、ほかに花蔵けぞう(華蔵)院領がある(国立史料館本元禄郷帳)。「風土記稿」成立時は旗本松波小笠原の二家の相給。幕末の改革組合取調書によれば上・下二村に分れており、上広川村は高一一九石余で松波領、下広川村は高一三三石余で、一二〇石余が小笠原領、残る一三石余が旗本五家の相給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報