平田篤胤墓(読み)ひらたあつたねのはか

日本歴史地名大系 「平田篤胤墓」の解説

平田篤胤墓
ひらたあつたねのはか

[現在地名]秋田市手形字大沢

手形てがた山中腹に立つ。平田篤胤は安永五年(一七七六)秋田藩士大和田清兵衛祚胤の四男として中谷地なかやち(現中通四丁目)に生れ、八歳で漢学を学ぶ。寛政七年(一七九五)脱藩して江戸に上り、同一一年備中松山の軍学者平田篤穏の養嗣子となり、名を平田篤胤と改める。享和元年(一八〇一)頃本居宣長の著書を読み、古学を唱える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「平田篤胤墓」の解説

ひらたあつたねのはか【平田篤胤墓】


秋田県秋田市中亀町にある、江戸時代後期の国学者、復古神道の大成者である平田篤胤(1776~1843年)の墓。1843年(天保14)に現在の秋田市中亀町にある自宅で没し、遺言によって市内手形の地に葬った。1934年(昭和9)、国の史跡として指定された。丘陵の上にあり、切り石を2段積みにして方形に地域を限り、石の玉垣を設置し、入り口木造鳥居石造の鳥居が置かれている。墓石は自然石で、表面に「平田篤胤之奥墓」と刻んである。JR秋田新幹線ほか秋田駅から秋田中央交通バス「鉱業博物館入口」下車、徒歩約12分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報