平田城跡(読み)ひらたじようあと

日本歴史地名大系 「平田城跡」の解説

平田城跡
ひらたじようあと

[現在地名]大山田村平田

平田東北部の古城ふるしろさくうちに比定。「源平盛衰記」の「三日平氏」の項に「伊賀国山田郡住人平田四郎貞継法師と云者あり、是は平家の侍肥後守貞能が弟なり、平家西国に落下て安堵し給はずと聞えければ、日頃の重恩を忘れず、多年の好を思て、当家に志ある輩、伊賀・伊勢両国の勇士を催し、平田城に衆会して謀叛を起し」とあり、「三国地志」はこれを引いて「按、山田下町ノ西北ニアリ、呼デ平田ノ城ト云フ」とある。同書の「下町ノ西北」というのは、平田の西北のだいもり米野こめの屋敷をさすと思われるが、これは同書の「米野堡」を結び付けて考えるべきである。

平田城跡
ひらたじようあと

[現在地名]宿毛市平田町戸内 平田城山

平田川の右岸高知坐たかちにます神社の南方二〇〇メートルの山頂にあり、天正一七年(一五八九)の山田郷内平田村地検帳に「平田古城」とみえる。城主平重盛家人平田太郎俊遠といい、長宗我部氏時代には兼松兵衛が城番を勤めたという。寿永元年(一一八二)平田俊遠は同じく重盛の家人であった蓮池権守家綱と謀り、源頼朝の弟で平治の乱後長岡郡介良けら(現高知市)に流されていた源希義を襲い、長岡郡年越としごえ(現南国市)に希義を討った。

平田城跡
ひらたじようあと

[現在地名]西区城町

城跡は現在農家宅地になっており、平田城の古井戸と称する井戸が一つだけ残されているが、この辺りを今も城の切しろのきりとよぶ。城主は「府志」に平田伊豆守とあるが、村人は平田和泉守といっていると「徇行記」に記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報