幡多郷(読み)はたごう

日本歴史地名大系 「幡多郷」の解説

幡多郷
はたごう

和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本とも「発多」と訓じ、「有上下」「在上下」とする。天平宝字五年(七六一)年紀をもつ平城宮跡出土木簡に「幡多郷」がみえるが、当郷との関係は不明。郷域について「摂津志」は柳谷やなぎだに付物つくもの吉尾よしお深谷ふかたに小名田おなだなか草下部くさかべの諸邑を幡多庄というところから下幡多郷にあて、上大沢かみおおぞう・中大沢・日西原ひさいはらすだれ市原いちはら・岩谷・屏風びようぶ上津上こうづかみ・上津下の諸邑を上畑かみはた郷というところから上幡多郷にあて、「日本地理志料」もこれにならう。

幡多郷
はたごう

「和名抄」上道郡幡多郷の郷名を継ぐものか。遺称地は不明であるが、明治二二年(一八八九)旭川左岸の赤田あこだ村・沢田さわだ村など九ヵ村が合併して幡多村が成立する。あるいは同村一帯に推定されるか。

正和三年(一三一四)四月一一日、平政有が金山かなやま寺に寄進した一段は、幡多郷畠田里一九坪にあった(「平政有寄進状」金山寺文書)。紀州熊野本宮領の斗餅田があり、至徳四年(一三八七)の斗餅田年貢所納状(八坂神社文書)では五〇〇文を「いはなり」が納入、また嘉慶二年(一三八八)の備前国斗餅田注文(同文書)には国衙内九ヵ郷の一つとして当郷四町九段代とある。

幡多郷
はたごう

「和名抄」高山寺本に「発多」の訓がある。郷域について「備陽国誌」は現岡山市域に含まれる近世清水しみず赤田あこだ高屋たかや沢田さわだせき山崎やまさき円山まるやま各村の地域とし、「備陽記」はこれに藤原ふじわらみなとを加える。正確な郷域はもとより不明だが、おそらくこの地域であろう。推定郷域内には、白鳳期に創建され巨大な塔心礎をもつ幡多廃寺(赤田)がある。郷名の「幡多」に関して「日本書紀」応神天皇二二年九月一〇日条にみえる「葉田葦守宮」との関係を考える説(「大日本地名辞書」など)もあるが、誤りであろう。

幡多郷
はたごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は訓を欠くが、伊勢本・東急本は「波多」と訓ずる。現三原町北部、江戸時代の上八太かみはだ村・下八太村を遺称とし、同地一帯を中心とする地域が郷域と考えられる。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条に「淡路国神本駅家、行程殊近、乞従停却、詔並許之」とある神本みわもと駅は当郷に所在したとされるが、同郡神稲くましろ郷に所在したともいう。停止された理由について「常磐草」は、古くは大野おおの(現洲本市)より神本駅に至り、国府(現三原町か)を経て福良ふくら(現南淡町)に向かったが、神本駅は大野・福良の間にあって行程が近くて益なしと推測している。

幡多郷
はたごう

「和名抄」は高山寺本・東急本ともに訓を欠くが、摂津など五ヵ国に同名の郷があり、また土佐国に同名の郡があって、「発多」または「波太」と訓ずる。「古事記」仁徳天皇の段に「秦人を役だちて茨田堤及び茨田三宅を作る」とあるので、渡来系氏族である秦氏の本拠地の一つであったことが知られる。「新撰姓氏録」は河内国諸蕃として、秦宿禰・秦忌寸・秦人・秦公を記す。現寝屋川市にはだ太秦うずまさの地名があり、郷の所在地について異説はない。

幡多郷
はたごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本・東急本に「判多」の訓がある。「遠江国風土記伝」は飯田いいだ(現浜松市飯田町付近)とし、旧版「静岡県史」は河輪かわわ富屋敷とみやしき(現浜松市富屋町)に「半田」の小字があることからこの付近比定する。

幡多郷
はだごう

「和名抄」高山寺本は「幡多野」につくり、東急本とともに訓を欠く。同書の土佐国幡多郡には「波多」と訓を付す。秦のことで、渡来人秦氏の居住地とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報