常光院(読み)じようこういん

日本歴史地名大系 「常光院」の解説

常光院
じようこういん

[現在地名]熊谷市上中条

県道熊谷―館林線の北に位置する。竜智山常光院盧遮那びるしやな寺と号し、天台宗本尊釈迦如来。建久年間(一一九〇―九九)に鎌倉幕府評定衆中条家長開基となり、武蔵国司であった祖父常光の追善菩提などのために金海を開山として一寺を建立したのが草創と伝える(「常光院縁起」など)。永禄三年(一五六〇)正月三日の天台座主応胤法親王令旨(常光院文書)に「武蔵国寄栖郡竜智山」とみえ、天台座主より直末の許可を受けた。しかし中世における当寺の動向は明らかではない。現在寺には天正一八年(一五九〇)五月日の豊臣秀吉禁制、文禄三年(一五九四)と推定される三月五日付の竜蔵院及雄寺等連署替地証文と四月一日付の小笠原吉次替地手形が所蔵されているが、これらの文書の宛名および記載は「聖天院」「正伝院」となっており、下忍しもおし(現行田市)にあった聖天しようでん院をさしている。

常光院
じようこういん

建仁寺の境外塔頭。小松こまつ町の北端有楽うらく小路建仁寺町東入、新道しんみちの北側にあり寺門は南面。本尊観音菩薩。開基は温仲。明治五年(一八七二)一〇月窮民産業所のために寺地(現祇園町南側)寄付境内に替地を下付される。

常光院
じようこういん

[現在地名]北区山田町

降花山と号し、真言宗智山派。本尊聖観世音菩薩。もと等覚寺といい、「徇行記」に「当所ノ城主山田左衛門尉祈願寺ナリ。其比ハ殿堂・什物ナド全備シテ、大地ナリシガ、度々ノ水害アリテ坊舎破壊シ、寛永年中、今ノ所ヘ坊舎引移ストナリ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「常光院」の意味・わかりやすい解説

常光院
じょうこういん

埼玉県熊谷(くまがや)市上中条にある天台宗別格本山。龍智山毘盧遮那寺(りゅうちざんびるしゃなじ)常光院と号する。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。「貞永(じょうえい)式目」の制定に評定衆(ひょうじょうしゅう)として参画した中条出羽守(ちゅうじょうでわのかみ)藤原家長(いえなが)が、祖父常光(つねみつ)の菩提(ぼだい)を弔うため、1192年(建久3)法印金海を開山として中条氏館跡に創建。1560年(永禄3)梶井宮(かじいのみや)(京都大原三千院)末となった。忍(おし)城主松平忠吉(ただよし)の帰依(きえ)を得ていた第10世住職澄舜(ちょうしゅん)が兼務住職をしていた下忍(しもおし)村(現行田(ぎょうだ)市)聖天院(しょうてんいん)を、1594年(文禄3)常光院に合併した。世界最古の現存刊行梵本(ぼんぽん)とされる『梵本般若心経(はんにゃしんぎょう)』の著者として知られる梵学者邦教(ほうきょう)(1701―61)は23世住職である。寺宝は邦教筆悉曇(しったん)字母表1軸、絹本着色阿弥陀(あみだ)変相図(県文化財)のほか多数ある。境内は県史跡。

[中山清田]

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世界大百科事典(旧版)内の常光院の言及

【聖護院】より

…智証大師円珍の開創と伝えられる。はじめ常光院と称したが,11世紀末に増誉が入寺して聖護院と改称した。増誉は1090年(寛治4)に白河上皇の熊野参詣に先達をつとめ,その功として熊野三山別当に任ぜられ,以後,当寺は修験道と深い関係をもった。…

※「常光院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」