建仁寺(読み)けんにんじ

精選版 日本国語大辞典 「建仁寺」の意味・読み・例文・類語

けんにん‐じ【建仁寺】

[1] 京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派の大本山。京都五山の一つ。山号は東山。建仁二年(一二〇二)源頼家が宋の百丈山に擬して造営、栄西を開山とした。はじめ真言、天台、禅の三宗兼学の道場であったが、一一世蘭渓道隆のとき禅刹となる。数度にわたり罹災し、天正年間(一五七三‐九二安国寺恵瓊(えけい)が復興に努めた。勅使門の南の建仁寺垣が名高い。けんねんじ。けんにん。
[2] 〘名〙 「けんにんじがき(建仁寺垣)」の略。
※随筆・嬉遊笑覧(1830)一上「建仁寺垣 〈略〉ふとき竹を四ツ割にして垣とするを建仁寺といふ」

けんねん‐じ【建仁寺】

[1] 「けんにんじ(建仁寺)(一)」の変化した語。
※かた言(1650)四「建仁寺(けんにんじ)を、けんねんじ」
[2] 〘名〙
② 三個のさいころを用いて行なう賭博。みつぼ
※御触書寛保集成四九・慶安元年(1648)二月「前々より被仰付候はくち、はうひき、けんねんし、かるた、何にても諸勝負堅仕間敷事」

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デジタル大辞泉 「建仁寺」の意味・読み・例文・類語

けんにん‐じ【建仁寺】

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号は東山。開創は建仁2年(1202)、開基は源頼家、開山は栄西京都五山の第三位。初め天台真言の兼学。方丈や塔頭たっちゅう襖絵ふすまえには海北友松かいほうゆうしょうの作が多い。俵屋宗達筆の風神雷神図屏風びょうぶは国宝、勅使門・方丈・竹林七賢図などは重文。
建仁寺垣」の略。

けんねん‐じ【建仁寺】

けんにんじ(建仁寺)」の音変化。

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日本歴史地名大系 「建仁寺」の解説

建仁寺
けんにんじ

[現在地名]東山区小松町

祇園ぎおん花街の南側に位置。西は大和大路やまとおおじ通、南は八坂やさか通、北は団栗どんぐり通で区切られ、東は安井金比羅やすいこんぴら(安井神社)に接する。一般に「けんねんじ」とよばれ、八坂通に面する正面の勅使門から三門・仏殿・方丈が南北に一直線上に並び、その左右に子院・塔頭が並ぶ。山号は東山。臨済宗建仁寺派大本山。本尊は釈迦如来

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

建仁二年(一二〇二)栄西の創建で、「帝王編年記」は「建仁二年壬戌建仁禅寺草創、当寺者本朝禅院最初、千光法師開山也」とする。創建にまつわる逸話として「元亨釈書」は「元久二年、京畿風、流言集栄西、栄西弁析明切、因是建仁為官寺、得監造」とし、「沙石集」も

<資料は省略されています>

との記事を載せ、大風による流言に対して栄西が明晰な反論をし、高僧と認められて建仁寺を賜ったとする。

寺地は「元亨釈書」に「金吾大将軍源頼家施地于王城之東、営大禅苑」とあり、鎌倉幕府より施入をうけ「五条以北、鴨河以東」の地が定められた(帝王編年記)。工事は「同三年癸亥十一月十五日己卯、西面築垣始之、前対馬守中原朝臣清業沙汰」、あるいは「同四年甲子二月九日癸卯鬼宿僧堂壇、佐々木太郎源定綱秀義長子、自手曳車築同四月定綱賜使宣旨、為佳例、同日渡菩提樹二茎等、丑寅角也」「同三日畠山庄司次郎重忠築垣二本、未申角惣門北二本築之」というように、武将らが「得道之因縁」を求め来援している(同書)。竣工は元久二年(一二〇五)のようで、「小笠原系図」の長経の項に「元久二乙丑為建仁官寺供養使入洛」とあり、また「武家年代記」裏書には「元久二年、建仁寺為官寺」と記され、竣工とともに官寺の扱いを受けたものと思われる。

栄西は備中の吉備津きびつ(現岡山市)の人で叡山(延暦寺)で天台密教を学び、仁安三年(一一六八)入宋して天台章疏三〇余部を持帰った。文治三年(一一八七)再び入宋して臨済禅の悟りを得て建久二年(一一九一)帰国した。翌年香椎かしい(現福岡市東区)の側に日本最初の禅寺といわれる報恩ほうおん寺を建て、正治二年(一二〇〇)には北条政子の信を得て鎌倉に寿福じゆふく寺を建てた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建仁寺」の意味・わかりやすい解説

建仁寺
けんにんじ

一般に「けんねんじ」ともよばれる。京都市東山区小松町にある臨済(りんざい)宗建仁寺派の大本山。東山(とうざん)と号する。1202年(建仁2)将軍源頼家(よりいえ)が栄西(えいさい)(千光(せんこう)国師)を開山として建立。日本臨済宗の開祖とされる栄西は、初め密教を学んだが、1187年(文治3)にふたたび中国(宋(そう))に渡って臨済宗黄龍(おうりょう)派の禅を学んだ。1191年(建久2)帰国後、禅を広めようとしたが天台宗徒の反対にあったので、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して天台側との融和を図ろうとした。鎌倉幕府の保護のもとに建てられた京都最初の禅院である建仁寺も、このような情勢のもとに、初めは真言院、止観院(しかんいん)を置いた天台、真言、禅、さらには戒をも兼修する寺であった。栄西の弟子には退耕行勇(たいこうぎょうゆう)、了然明全(りょうねんみょうぜん)など傑出した禅僧が出たが、いずれも天台、真言を兼修する禅であった。1258年(正嘉2)円爾弁円(えんにべんえん)が住持となり、65年(文永2)宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が11世となって楊岐(ようぎ)派の禅を説き、建仁寺は初めて純粋の修禅道場となった。1341年(興国2・暦応4)に足利尊氏(あしかがたかうじ)によって五山の第四位に、さらに86年(元中3・至徳3)足利義満(よしみつ)によって五山の第三位と定められた。南北朝時代以後、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、竜山徳見(りゅうざんとくけん)、江西龍派(こうさいりゅうは)などが住持して五山文学の中心となったが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)により荒廃し、さらに1552年(天文21)兵乱により堂宇を焼失した。文禄年間(1592~96)安国寺恵瓊(えけい)が安芸(あき)(広島県)安国寺の方丈を移建し、また鎌倉の東福寺の茶堂を移して本堂としたのち、ふたたび寺運盛んとなった。江戸時代には徳川幕府の五山派寺院に対する保護と統制を受け、諸堂の再建、修造が行われた。本尊は釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)で、脇侍(きょうじ)に仏弟子の阿難(あなん)と迦葉(かしょう)を配している。

 建造物のうち、方丈と勅使門は国の重要文化財。勅使門は俗に「矢の根門」といわれ、平氏の六波羅(ろくはら)邸の遺構とも伝える。仏殿(法堂(はっとう))の東に二つの鐘楼があり、西の鐘は嘉暦(かりゃく)年間(1326~29)に鋳造したもの、東の鐘は、栄西のときから1日に百八声、陀羅尼経(だらにきょう)を読誦(どくじゅ)しながら鳴らしてきたので「陀羅尼の鐘」といわれ、東山名物の一つとされた。開山堂は興禅護国院(こうぜんごこくいん)といい、栄西の像を安置しており、堂の前の菩提樹(ぼだいじゅ)は栄西が宋より帰国するとき持ち帰ったものといわれる。そのほか、寺内には中国元から来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)を開基とする禅居庵(ぜんこあん)、摩利支天(まりしてん)の坐像を安置する摩利支天堂、経蔵、浴室などがある。西側の一帯は昔からの竹垣があり、一般に「建仁寺垣」とよばれる。塔頭(たっちゅう)寺院は最盛時には64院あったが、焼失や合併などのため、現在は西来(さいらい)院、両足(りょうそく)院、霊洞(れいとう)院など14院だけが残る。栄西は中国から茶をもたらし、日本に茶の栽培、喫茶の習慣を普及したといわれ、4月下旬の開山忌には茶会「建仁寺茶礼」が催される。寺宝は、俵屋宗達筆『風神雷神図屏風(びょうぶ)』(国宝)のほか、「十六羅漢(らかん)画像」「山水図」「竹林七賢図」などの絵画、明恵上人(みょうえしょうにん)消息、一山一寧(いっさんいちねい)墨跡(いずれも国指定重要文化財)など数多い。

[菅沼 晃]

『『古寺巡礼 京都6 建仁寺』(1976・淡交社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「建仁寺」の意味・わかりやすい解説

建仁寺 (けんにんじ)

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山。開山は明庵栄西。栄西は宋より帰国すると,博多聖福寺,鎌倉寿福寺を拠点として禅法を挙揚(こよう)したが,彼の念願は,王城の地たる京都への進出であった。さいわい帰依者であった将軍源頼家が,鴨川以東で,五条以北四条以南の地を施入したので,1202年(建仁2)この地に真言・止観・禅の三院併置の建仁寺を建立した。《沙石集》に〈国の風儀に背かずして,教内をひかへて,戒律・天台・真言なんど相兼ねて,一向の唐様を行ぜられず,時を待つ故にや〉と記しているごとく,栄西は旧仏教勢力の金城湯池たる京都において,極力彼らとの摩擦をさけ,建仁寺を教禅兼修の道場としたのである。それでも旧仏教勢力からの非難攻撃は避けられず,05年(元久2)都で大風が吹いたとき,その原因は栄西ら禅徒たちの大袈裟,大衣という異様な服装のせいであるとし,栄西は都から追放されようとしたほどであった。のち蘭渓道隆が11世住持となるに及んで,ようやく純粋な修禅道場となった。南北朝期に入って五山第3位に列位され,五山文学活動の中心的存在となった。幾度か火災にあったが,1552年(天文21)諸堂宇を全焼し荒廃していたものを,安国寺恵瓊(えけい)が再建に努力し,安芸安国寺の方丈,東福寺の茶堂などを移建して旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)64院を数えたが,現在は減少して14院となり,ほかに末寺70ヵ寺を擁している。
執筆者:

境内は南面し,かつては五山にふさわしい三門,仏殿,法堂が南北の直線上にならぶ伽藍を誇った。現在はその中心部には江戸時代後期の仏殿と小さな山門をみるにすぎない。建造物ではわずかに南端の総門(勅使門,鎌倉後期)と,北端の方丈(旧安芸安国寺より移建。創建は1487年)が重要文化財に指定されている。寺宝には俵屋宗達晩年の作《風神雷神図》(国宝)の二曲屛風があり,その裏側には酒井抱一筆の《夏秋草図》がある。桃山時代に移建した方丈には海北友松筆の《竹林七賢図》《花鳥図》などの襖絵があったが,1934年の室戸台風の後,掛幅となっている。このほか,明代の《十六羅漢図》,明恵上人消息,一山一寧墨跡などが伝えられ,境内各塔頭にも友松筆の襖絵など多くの文化財がある。中門の竹垣は建仁寺垣として著名である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「建仁寺」の意味・わかりやすい解説

建仁寺【けんにんじ】

京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派の本山。山号は東山。本尊釈迦如来。日本最初の禅寺で,開基は栄西。1204年源頼家が創建し,初めは延暦寺の圧迫により,天台・真言・禅の兼修の寺としたが,のち蘭渓道隆が11世住持となるにともない禅の道場となり,京都五山の一つとなる。1552年焼失し,安国寺恵瓊が再興。現在の方丈は他寺から移したもので室町時代のもの,勅使門は鎌倉末ころの唐様四脚門。宗達の風神雷神図屏風,十六羅漢像などを蔵する。
→関連項目奥田頴川義堂周信建仁寺垣如庵道元林羅山方丈臨済宗

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建仁寺」の意味・わかりやすい解説

建仁寺
けんにんじ

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西。創建は建仁2 (1202) 年で,開基は源頼家。鎌倉幕府から施入されたと伝えられる寺域は「五条以北,鴨川以東」とされ広大であり,禅と止観 (天台) と真言の三宗を兼学する道場として建てられた。当初は天台宗の別院として位置づけられたが,蘭渓道隆が正元1 (59) 年に住持してから禅寺としての性格が強まり,深草天皇の諱「久仁」の仁字を避け「建寧寺」と号するようになった。建武年間 (1334~1337) に五山となり,興国2=暦応4 (41) 年には五山の第4位,元中3=至徳3 (86) 年には第3位になった。歴代の住持には五山文学に名を連ねる学僧たちが並び立ち,五山文学の府として権威を誇り,「建仁寺の学者面」ともいわれた。伽藍はたびたび火災にあい,その都度復興されてきた。正嘉2 (1258) 年の火災では円爾弁円が復興し,天正年間には安国寺恵瓊が再建に努力したという。天明8 (1788) 年の『禅宗済家五山建仁寺末寺帳』には,末寺の総計 182寺を数え,同年の『禅宗臨家五山建仁寺派下廃壊改派寺院牒』には,総計 181寺が書上げられている。国宝の俵屋宗達筆紙本金地著色『風神雷神図屏風』をはじめ,紙本墨書『明恵上人筆消息』『一山一寧墨跡』 (1幅) ,『宋拓石橋可宣筆三自省』 (3幅) などの墨跡,絹本著色『十錬四翫漢像』,紙本墨画『竹林七賢図』,紙本墨画『花鳥図』,紙本淡彩『琴棋書画図』,紙本墨画『山水図』,紙本墨画『雲龍図』などの絵画や,勅使門と方丈が重要文化財に指定されている。毎年4月 20日には開山忌が催され,茶礼の雰囲気を残す「四つ頭茶礼」が行われる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「建仁寺」の解説

建仁寺
けんにんじ

「けんねんじ」とも。京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山。開山は栄西。土御門(つちみかど)天皇の勅願で,1202年(建仁2)源頼家が創建した日本最初の禅院。建築が始まったのは03年,竣工は05年(元久2)。1386年(至徳3・元中3)には京都五山の第3位になるなど,終始五山の一つであった。建造物では方丈・勅使門(重文),絵画では俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝),南北朝期の「十六羅漢像」,桃山時代の「竹林七賢図」「花鳥図」「琴棋書画図」(いずれも重文)などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「建仁寺」の解説

建仁寺
けんにんじ

京都市東山区にある臨済宗の寺院。京都五山の一つ
建仁寺派の本山で,1202年源頼家が創建。栄西 (えいさい) が開山。初め真言・天台・禅の3宗兼学の寺であったが,11世蘭溪道隆のとき禅宗のみの寺院となり,のち京都五山の第3位に列した。

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デジタル大辞泉プラス 「建仁寺」の解説

建仁寺

京都府京都市東山区にある寺院。「けんねんじ」とも読む。臨済宗建仁寺派大本山。山号は東山(とうざん)。1202年開創。本尊は釈迦如来。京都五山のひとつ。国宝の風神雷神図屏風(俵屋宗達作)など、数多くの文化財を保有。

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事典・日本の観光資源 「建仁寺」の解説

建仁寺

(京都府京都市東山区)
京都五山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の建仁寺の言及

【栄西】より

…99年(正治1)鎌倉に下向,北条政子と2代将軍源頼家の帰依をうけ,翌年寿福寺に請ぜられて開山となった。《吾妻鏡》はもっぱら密教祈禱僧としての活動を記録しているが,1202年(建仁2)頼家の寺地施入により京都に建仁寺を開創,また頼家の申請で朝廷はここに真言・止観・禅の三宗を置く宣旨を下した。かくて禅宗勅許の目標は一応達成され,京都・鎌倉を往復する栄西の活躍が始まった。…

【海北友松】より

…しかし,幅広い教養人として,終生芸事を一段低く見る武門の気概を失わなかったため,作品には,武人的な鋭い覇気がうかがえる。99年(慶長4)再建の建仁寺方丈に描く《琴棋書画図》《花鳥図》《竹林七賢図》などのほか,霊洞院の《花鳥図》,禅居庵の《松竹梅図》などの襖絵は,狩野派に学んだ巨大樹木など桃山的な様式と同時に,梁楷様(りようかいよう)の〈袋人物〉の造成や,牧谿様(もつけいよう)の叭々鳥(ははちよう)に潑墨風の松を組み合わせるなど,独自の画技を展開し,象徴的で直截な自己主張を表している。また《飲中八仙図》屛風(京都国立博物館),《山水図》屛風(東京国立博物館),《楼閣山水図》屛風(MOA美術館)などは,玉澗風の潑墨もまじえ,真行草の三体を会得したことを示す。…

【京都五山】より

鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…

※「建仁寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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