市田村(読み)いちだむら

日本歴史地名大系 「市田村」の解説

市田村
いちだむら

[現在地名]久御山町大字市田

巨椋おぐら池の南側に位置し、東は安田やすだ(現宇治市)、西は御牧みまき郷、南は佐古さこ村にあたる。巨椋池南岸の津としての性格をもつ村落

明治一〇年代の「京都府地誌」は一ノ坪・四ノ坪・五ノ坪などの字名を記す。条里制の遺存地名と考えられる。

村の沿革について同書は「天平年間ヨリ平治ノ頃迄和気氏之ヲ領シ、尓後男山八幡宮社領ニ移リ、文禄中永井氏ノ采邑トナリ、元和ノ季ヨリ淀藩ノ版図ニ入リ」と記す。和気氏との関係は、当地の小字名に和気わけ珠城たまきなどがあるところからの伝説と考えられるが、天正一三年(一五八五)の奥書のある市田城主橘判官氏則後胤市田伯耆守政清などによって記された「市田玉城神社護法神社并神宮寺巻」(市田自治会蔵)や寿豊山観音縁起(市田観音講蔵)はともに、当地が和気清麻呂のゆかりの地であるとしている。

市田村
いちたむら

[現在地名]五個荘町竜田たつた

位田いんで村の南西金堂こんどう村の西にあり、南西は北町屋きたまちや村。村名は南東部を南西から北東に走る中山道の市場にちなむと思われる。近世には北町屋村および石川いしかわ村の一部を含み、本郷部分は現竜田地区のうちのほぼ南西半分にあたる。慶長七年(一六〇二)検地帳(竜田共有文書)では反別四三町一反余、田三八町九反余・畑屋敷四町五反余。慶長高辻帳では高六八〇石余。領主変遷七里しちり村と同じ、慶応元年(一八六五)から同二年まで賀陽宮領。元禄八年大洞弁天寄進帳では北町屋分を除く家数三〇・人数一六三(男八六・女七六・寺社方男一)。享和元年(一八〇一)の書上帳(神崎郡志稿)によれば、農間余業として布織をしている。

市田村
いちだむら

[現在地名]豊川市市田町

上千両かみちぎり村の西南にあたる。国府こう村に近く「穂原村誌」には渡津庄としているが確証はない。慶長七年(一六〇二)旗本水野忠直の知行となり、寛永一〇年(一六三三)政直が継いだが、同年から幕府領、正徳五年(一七一五)旗本曲淵景衡、間部詮之・弟詮衡、村上正邦・弟正直の五家の知行となって明治に至る。

慶長九年八月の市田村御検地帳(伊知多神社蔵)によると、田四七町一反余・畑一七町余、分米七五八石余である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報