市村光恵(読み)いちむら・みつえ

朝日日本歴史人物事典 「市村光恵」の解説

市村光恵

没年:昭和3.9.27(1928)
生年:明治8.8.5(1875)
明治大正期の憲法学者,政治学者。土佐(高知県)生まれ。市村柳吉,鹿の子。明治35(1902)年東京帝大法科大卒。36年京都帝大助教授,39~42年独仏に留学,42年同教授として国法学,憲法を講じた。留学前には師穂積八束の影響下で天皇機関説を排撃したが,留学後は機関説に転じ,45年美濃部達吉と上杉慎吉の間で論争が生ずるや,美濃部の説を「国体」への異説として攻撃する上杉の態度が非学問的であることを激しく攻撃する論文を雑誌『太陽』に寄稿した。政治思想は中庸主義で,性急な民主化には反対し,ロシア革命を批判した。昭和2(1927)年京都市長となるが高級官僚人員整理に手をつけて3カ月で辞任。<著作>『帝国憲法論』『国家及国民論』『行政法原理』

(長尾龍一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市村光恵」の解説

市村光恵 いちむら-みつえ

1875-1928 明治-昭和時代前期の法学者。
明治8年8月5日生まれ。35年母校東京帝大の講師となり,36年京都帝大にうつる。39年ドイツ,フランスに留学。42年京都帝大教授となり,国法学と憲法講座を担当。天皇機関説の立場をとった。昭和2年京都市長。昭和3年9月27日死去。54歳。高知県出身。著作に「行政法原理」「帝国憲法論」など。

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