崎戸村(読み)さきとむら

日本歴史地名大系 「崎戸村」の解説

崎戸村
さきとむら

[現在地名]崎戸町本郷ほんごう

崎戸島蠣浦かきのうら島の南西に位置する。北西御床みとこ島、南にいも島が浮ぶ。応仁年間(一四六七―六九)多以良たいら(現大瀬戸町)に拠点を置いた小佐々弾正が当地一帯を支配したという。文明八年(一四七六)大村純伊が有馬貴純に敗れ、玄界灘の加々良かから(現佐賀県鎮西町)に敗走した際、崎戸の家船衆が加勢したと伝える。永禄一三年(一五七〇)平戸松浦氏の軍勢六四人が兵船二艘で崎戸浦に打寄せたが、小佐々純正の兵が上陸を阻止したという(以上「大村郷村記」)。江戸時代は大村領の外海そとめに属する。蠣ノ浦島・崎戸島・ひら島・ノ島を含めて崎戸と総称する場合と、崎戸島のみをさす例があり、慶長年間(一五九六―一六一五)崎戸村から加喜かきノ浦が分立したともいう。しかし崎戸村はのちの史料では嘉喜浦の小村として扱われることが多い。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「さきと村」の「谷川善右衛門まんしよ」らが署名している。「大村見聞集」によれば、正保国絵図に「蠣の浦内崎戸浦」は船繋ぎが悪いと記されるという。

正保元年(一六四四)幕府の命で大村藩が異国船警備のため崎戸大番所を設置、オランダ船が出島に入港して停泊する五―九月の期間に馬廻役が在勤した。併せて置かれた崎戸浦・嘉喜浦・江島おお(現大島町)面高おもだか村・大田和おおたわ村・黒口くろくち村・中浦なかうら(現西海町)の小番所を管轄、法令の達次、廻船切手の検閲、漂着した異国船の長崎までの曳航、遭難船の処理方などに従事、大村領外海の浦および海上を支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報