岩森村(読み)いわもりむら

日本歴史地名大系 「岩森村」の解説

岩森村
いわもりむら

[現在地名]亀山市太森ふともり

太田おおた村の東に続く安楽あんらく川南岸の村。集落地南部は丘陵となる。「親元日記」文明五年(一四七三)九月三日条によれば清泉州今河名越が「知行勢州岩もり事、長野与力コウ(国府)ト申者押妨之以前、御下知之上は、重可被成奉書之由」を訴えているので、戦国期には長野・峯両氏の拮抗の舞台となっていたらしい。近世初期の帰属は明らかでないが、寛永一三年(一六三六)以降亀山藩領。山がちの小村で、同一四年の内検地では田畑合せて二〇町余、村高は二七一石余。山年貢として米八斗、二分金一両、銀七匁余を上納(九九五集)、それ以外に新開林(三町余)運上銀や街道筋市瀬いちのせ(現鈴鹿郡関町)での町場掃除銀一三匁余、伝馬宿入用銭として銀一一匁余を出し、御留山から松木小柴松茸を出す際には人足や縄の負担があった(亀山御領分雑記)

岩森村
いわもりむら

[現在地名]双葉町岩森

かやヶ岳南麓の登美とみ台地末端に位置し、水利に恵まれず近世中期までは寒村であった。慶長七年(一六〇二)検地帳(県立図書館蔵)では中田六反余・下田六反余、中畑一町八反余・下畑四町二反余・下々畑六町二反余、屋敷一反余。慶長古高帳では高九八石余、幕府領。享保九年(一七二四)から幕府領甲府代官支配、天保三年(一八三二)市川代官から石和代官支配となる(甲州代官付)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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