岡豊城(読み)おこうじょう

日本の城がわかる事典 「岡豊城」の解説

おこうじょう【岡豊城】

高知県南国市にあった中世山城(やまじろ)。国指定史跡。戦国時代、四国を制覇した長宗我部(ちょうそかべ)氏代々の居城で、標高97mの岡豊山(おこうやま)に築かれた。本城と2つの曲輪で構成され、戦国期の山城としては大規模な城郭であった。鎌倉時代初期、信濃(長野県)の秦能俊(はたよしとし)が土佐の長岡郡宗部郷(南国市岡豊町)に移り、岡豊城を築いたと伝えられている。これを機に、秦氏は長宗我部氏を名乗る。応仁の乱後、土佐は豪族が台頭し、群雄割拠の時代に入った。1508年(永正5)岡豊城は、豪族の連合軍に襲われ落城城主長宗我部兼序(ちょうそかべかねつぐ)は自刃して果てる。この時、兼序の子国親(くにちか)は、中村の一条氏のもとに落ち延び、やがて一条氏の取りなしで岡豊城に復帰、以後勢力を拡大していった。国親の子の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、1574年(天正2)主家の一条氏を中村城から追放して土佐を平定、さらに1585年(天正13)に四国を統一した。しかし翌年、四国に侵攻してきた豊臣秀吉と戦って敗れ、土佐一国のみの所領となった。1588年(天正16)大高坂(おおたかさ)(現在の高知城所在地)に居城を築き移ったものの、治水の悪さから岡豊城に戻る。1591年(天正19)新たに浦戸城(うらとじょう)を築城し本拠としたため、岡豊城は廃城となった。現在、石垣、曲輪(くるわ)、土塁空堀井戸などが残り、城跡一角高知県立歴史民俗資料館がある。JR土讃本線高知駅からバスで30分、学校分岐下車徒歩10分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡豊城」の意味・わかりやすい解説

岡豊城
おこうじょう

鎌倉末期から戦国期の城。高知県南国(なんこく)市岡豊町八幡にある。城の創築年代は不明で、鎌倉末期にはすでに長宗我部(ちょうそがべ)氏の城としてあったと考えられている。1508年(永正5)長宗我部兼序(かねつぐ)のとき本山氏に城を奪われるということもあったが、その子国親(くにちか)のときに回復。さらに国親の子元親(もとちか)のときに四国全土を統一し、岡豊は長宗我部領の中心であった。1588年(天正16)大高坂(おおたかさ)山に移転し廃城。

[小和田哲男]


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世界大百科事典(旧版)内の岡豊城の言及

【長宗我部氏】より

…その後,土佐の守護細川氏の麾下にあって吸江庵寺奉行を兼ね,応仁の乱にも東軍として京都に出陣している(《見聞諸家紋》)。以後戦国期は長岡郡岡豊(おこう)城に拠って国人領主として蟠踞(ばんきよ)し,国守土佐一条氏のほか安芸,香宗我部(あるいは山田),吉良,本山,大平,津野氏などとともに,土佐国〈大名七人〉〈守護七人〉などと呼ばれる。兼序は1508年(永正5。…

【南国[市]】より

…平野北部,南西流する国分川北岸は古代の土佐国府の地に比定され,近くには国分寺や総社,国司であった紀貫之の邸跡と伝える地がある。また戦国期,土佐を統一した長宗我部元親の居城岡豊(おこう)城があった。近世前期,土佐藩執政野中兼山は郷士を起用して国分川南岸の長岡台地を開発,在郷町の後免(ごめん)町が形成された。…

※「岡豊城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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