岡崎邦輔(読み)おかざきくにすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡崎邦輔」の意味・わかりやすい解説

岡崎邦輔
おかざきくにすけ
(1854―1936)

明治~大正時代の政党政治家。和歌山藩出身。従兄(いとこ)の陸奥宗光(むつむねみつ)を頼って大蔵省に出仕、内務、司法省に転じ、1878年(明治11)新宮(しんぐう)警察署長、さらに和歌山署長を経て、1888年陸奥の駐米公使赴任に従って渡米、ミシガン大学に学んだ。陸奥の政治活動を支援するため1891年和歌山から代議士出馬、紀州組をつくった。1897年自由党入党、ついで憲政党結成に参加したが、星亨(ほしとおる)とともに隈板(わいはん)内閣分裂を策し、分裂後の憲政党を第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣と提携させるため尽力。1900年(明治33)立憲政友会の創立に参加、第四次伊藤博文(ひろぶみ)内閣では星逓信(ていしん)大臣の下で官房長を務めた。1901年の星死後は古河合名会社の理事に専念足尾鉱山の鉱毒問題処理などにあたった。1908年ふたたび代議士となり、第一次護憲運動では政友会を代表して活躍、一時尾崎行雄らと政友倶楽部(くらぶ)をつくったが、やがて政友会に復帰、大正時代を通じてその幹部として総裁原敬(はらたかし)、高橋是清(これきよ)を助け、党内の取りまとめ役を務めた。1924年(大正13)護憲三派結成に尽力、翌年の普通選挙法成立にも寄与した。同年加藤高明内閣の農林大臣に就任したが、三派内閣の瓦解(がかい)でまもなく辞任。1928年(昭和3)普選法実施を機に政界引退宣言、同年貴族院議員に勅選された。政界の裏面での活躍に才能を発揮したため策士と目された。

[宇野俊一]

『平野嶺夫著『岡崎邦輔伝』(1938・晩香会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「岡崎邦輔」の意味・わかりやすい解説

岡崎邦輔 (おかざきくにすけ)
生没年:1854-1936(安政1-昭和11)

政治家。和歌山県出身。本姓長坂。岡崎家の養子。鳥羽・伏見の戦に参加。1888年従兄陸奥宗光特命全権公使に従い渡米しミシガン大学に学ぶ。91年代議士となり,以後当選10回。陸奥の死後,星亨と結び,第4次伊藤博文内閣で星逓相の官房長をつとめた。また,憲政党,立憲政友会の政務に関与し策士として有名。1912年犬養毅,尾崎行雄らと護憲運動を起こし,25年第1次加藤高明内閣の農相となる。28年政界を引退。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡崎邦輔」の意味・わかりやすい解説

岡崎邦輔
おかざきくにすけ

[生]安政1(1854).3.15. 和歌山
[没]1936.7.22. 東京
政治家。陸奥宗光の従弟。熊本県警部を振出しに和歌山県新宮の警察署長などをつとめたが,1888年陸奥特命全権公使に従って渡米。ミシガン大学に学ぶ。星亨の参謀として働き,91年総選挙に立候補して当選,政界に入った。以来当選 10回。 1912年犬養毅尾崎行雄らと桂内閣打倒の憲政擁護運動を起し,25年加藤高明護憲三派内閣が成立すると,農相として入閣,活躍した。立憲政友会きっての政略家として知られたが,28年普通選挙を契機に政界第一線を退いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡崎邦輔」の解説

岡崎邦輔 おかざき-くにすけ

1853-1936 明治-昭和時代前期の政治家。
嘉永(かえい)6年3月15日生まれ。明治21年駐米公使陸奥宗光(むつ-むねみつ)にしたがって渡米し,ミシガン大に留学。24年衆議院議員となり,自由党,憲政党,政友会に属した(当選10回)。大正元年犬養毅,尾崎行雄らと第1次護憲運動をおこす。のち加藤高明内閣の農相。貴族院議員。昭和11年7月22日死去。84歳。紀伊(きい)和歌山出身。旧姓は長坂。

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