山田庄(読み)やまだのしよう

日本歴史地名大系 「山田庄」の解説

山田庄
やまだのしよう

美嚢みのう川の支流志染しじみ川上流域に成立した庄園。志染川は当地付近では山田川ともいう。摂津国八部やたべ郡のうち。室町時代から戦国時代にかけての庄内の田畠の売券・譲状(阪田文書・山田文書・栗花落文書など)に、藍那あいなしもなか福地ふくち原野はらの上谷上かみたにがみ・下谷上などの村名がみえ、江戸時代にはこれら諸村に小川おうご(小河)坂本さかもと衝原つくはら小部おうぶを加えた地域を丹生山田たんじようやまだ庄といった(正保郷帳など)。丹生山田庄の名は原野安養あんよう寺旧蔵の長禄四年(一四六〇)銘の梵鐘(須磨区福祥寺蔵)にもみえる。播磨との国境付近にあるため、暦応二年(一三三九)一一月一三日の赤松則村挙状(越前島津家文書)に「播磨国山田丹生寺」とあるように、播磨国所属とみられることも多かった。

長元八年(一〇三五)正月二〇日の山田庄司等解(九条家本延喜式裏文書)によれば、当庄は摂津・播磨国境にあり、往来する「不善之輩」がともすれば放火・殺人などを犯す治安の悪い所であった。当時の領主は不明。嘉応元年(一一六九)一一月日の権大僧都顕―解案(東大寺文書)によれば、山田庄は先に奈良東大寺が領有していたが、永万(一一六五―六六)頃、平清盛領の越前国大蔵おおくら(現福井県鯖江市)と交換したという。以来平氏領であったが、平氏の滅亡とともに源頼朝に没官され、文治三年(一一八七)一〇月頼朝により六条左女牛西洞院さめうしにしのとういん(現京都市下京区)にあった若宮八幡宮に寄進された(「吾妻鏡」同年一〇月二六日条)

山田庄
やまだのしよう

旧山田郡に属し、遺称地名が現守山もりやま区・名東めいとう区・北区・西区にあるので、荘域は庄内川・矢田やだ川の合流点付近から東北部にかけ、庄内川左岸および矢田川流域一帯に比定される。仁平三年(一一五三)四月二九日付東大寺諸荘園文書目録(守屋孝蔵氏所蔵文書)に「山田庄券」分として「一巻二枚延喜九年国郡立券」とあるのが初見で、天平勝宝四年(七五二)勅施入され、延喜九年(九〇九)立券された東大寺領荘園である。尾張では同寺領は知多郡を除く七郡に設けられ、それぞれ郡名をもって荘名としていた。山田庄は天暦四年(九五〇)には六町、長徳四年(九九八)には三六町の田地があったが、支配内容などは不詳。東大寺領としては弘安八年(一二八五)八月の東大寺領諸荘注進状写(東大寺文書)が終末所見史料で、「顛倒由来当知行之仁不存知之矣」とあり、寺家ではその由来や当知行の者すら把握していない。

本家職は、寿永三年(一一八四)二月一一日付某下文(水野正彦氏所蔵文書)に「八条院御領尾張国山田御庄」とみえ、八条院に寄せられていた。

山田庄
やまだのしよう

白鳥しろとり町・大和やまと町・八幡はちまん町にまたがり、長良川上流域に位置する皇室領庄園。かみ保と下保に分れ、上保は牛道うしみち郷・馬庭ばんば郷を含み現白鳥町・大和町の一部に、下保は野田のだ郷・栗栖くりす郷を含み現大和町・八幡町の一部にあたる。白鳥町歩岐島の悲願ほきじまのひがん寺蔵明応八年(一四九九)の方便法身像裏書に「山田庄白山長滝寺内三船」、白鳥町中西の仏乗なかにしのぶつじよう寺蔵明応八年同裏書に「山田庄牛道郷中西村」、大和町大間見の清浄おおまみのしようじよう寺蔵年不詳の同裏書に「山田庄□□」、同町万場の長徳まんばのちようとく寺蔵長禄元年(一四五七)同裏書に「野田郷馬場村」、同町徳永の恩善とくながのおんぜん寺蔵明応九年同裏書に「山田庄栗栖郷八日市」、同町栗巣の応徳くりすのおうとく寺蔵大永二年(一五二二)同裏書に「山田庄栗栖郷西俣」、白鳥町ろくの集山助左衛門蔵天文一〇年(一五四一)同裏書に「郡上郡上保牛道郷集山」などとある。

貞応三年(一二二四)以降の年月日未詳宣陽門院覲子内親王所領目録(島田文書)に「美濃国山田庄上保 下保」とある。覲子内親王は後白河法皇の皇女で、建久二年(一一九一)宣陽門院の号が与えられ、六条長講堂領・長講堂領および上西門院領が譲渡された。

山田庄
やまだのしよう

中世、高来たかく郡内に成立した庄園。弘安九年(一二八六)閏一二月二八日の蒙古合戦并岩門合戦勲功地配分注文案(比志島文書)に「高木西郷山田庄」とみえ、この領家職および惣地頭職が弘安の役での勲功賞として肥前国守護の北条時定に与えられている。この両職はのち定宗―随時―治時と伝領され、肥後阿蘇あそ小国おぐに(現熊本県小国町)を根拠とした北条一門の勢力下にあった。正応五年(一二九二)八月一六日の肥前河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)に庄園分として「山田庄二百四十丁」とみえ、肥前国一宮河上かわかみ(現佐賀県大和町)の造営費用を負担している。正安三年(一三〇一)「高久内守山郷」の地頭職が河上社に寄進されたが(同年六月一一日「関東寄進状案」実相院文書)、同地をめぐり当庄の領家兼地頭の北条随時の代官である神田聞・田口法幸・平野行真房らは河上社大宮司の高木経貞が下地を押領し、新田検注を打止めたとして訴え、河上社は本田(起請田)一町四段二丈の所当米の対捍を止めること、以前の未進は免除されることで和与に至っており、正和四年(一三一五)幕府はこれを確認している(同年一一月二三日「関東下知状案」同文書など)

山田庄
やまだのしよう

現垂水区西端辺りに展開する庄園。遺称は江戸時代の山田村。治承四年(一一八〇)厳島詣のために西下した高倉上皇は三月二一日福原ふくはらをたち、「高倉院厳島御幸記」に「はりまの国山だといふところにひるの御まうけあり」とみえるように山田で昼食をとっているが、同地は延慶本「平家物語」(平家福原に一夜宿事)に、花見の春の薗の御所、初音尋ねる山田御所、月見の秋の岡の御所とあり、清盛が福原とその近辺に造った別荘の一つと思われる。治承五年閏二月四日平清盛は没し、「於遺骨者、納播磨山田法花堂、毎七月形仏事」と遺言した(吾妻鏡)

山田庄
やまだのしよう

琵琶湖に臨む現草津市の草津川下流部左岸に比定される。「輿地志略」は江戸期の南山田みなみやまだ村・北山田村木川きのかわ村・御倉みくら村付近とする。「源平盛衰記」巻二八(源氏追討使事)に「山田・矢走の渡し」とみえるように、水上交通の要衝として知られる。元徳元年(一三二九)九月二九日の山田庄木川田地坪付案(葛川明王院史料)に庄名がみえ、庄内木川の田地に葛川明王かつらがわみようおう(現大津市)の常灯料田があった。

山田庄
やまだのしよう

古代の上毛かみつみけ郡山田郷(和名抄)の郷名を継承したとみられる宇佐宮弥勒寺領庄園。庄域は遺称地とされる現大字山田および当庄鎮守宗像八幡宮(現在の大富神社)が鎮座する現大字四郎丸しろうまるを中心とする一帯に比定される。鎌倉時代初期と推定される弥勒寺喜多院所領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)に、豊前国五五ヵ所の一つとして「山田庄并佐留尾百廿町別符」とある。永仁五年(一二九七)六月日の善法寺尚清処分帳(同文書/鎌倉遺文二五)や、元応元年(一三一九)八月日の弥勒寺権別当方祗候人数等定書(同文書/鎌倉遺文三五)にも弥勒寺領としてみえる。

山田庄
やまだのしよう

至徳四年(一三八七)五月七日の足利義満寄進状写(通法寺及壺井八幡宮文書)に「寄付 河内国石川仏眼寺 同国山田下庄下司職武延・貞元両名散在田畠等之事」とみえる。仏眼ぶつげん寺は山田に隣接する葉室はむろにあった寺。この山田下庄が当地山田一帯にあったという確証はないが、同寄進状によると山田庄は上下に分れており、当時河内国守護畠山基国のあっせんにより山田下庄の所職を寄進していたことが知られる。

山田庄
やまだのしよう

現大平町西山田にしやまだを中心とした一帯に比定される。西山田は近世には山田村と称し、明治九年(一八七六)白岩しらいわ村・立花たちばな村を合併、同一二年西山田村と改称する。「和名抄」記載の那須郡山田郷を継ぐとする説があるがあたらない。「吾妻鏡」建久二年(一一九一)一二月一五日条に「下野国山田庄」とみえ、土佐房昌俊の老母が当地から鎌倉に参上し、源頼朝から「綿衣二領」を与えられている。それは子息昌俊が源義経追討に進んで参陣し、捕らえられて命を落したためであるという。これより先、同書文治元年(一一八五)一〇月九日条によれば、昌俊は義経追討に際して老母や子供のために頼朝から中泉なかいずみ庄を拝領している。

山田庄
やまだのしよう

現邑久町山田庄を遺称地とし、一帯に推定される京都賀茂別雷かもわけいかずち神社領。寿永二年(一一八三)一一月四日の後白河院庁下文案(賀茂別雷神社文書)に「賀茂別雷社領山田・竹原等庄」とみえ、治承・寿永の内乱の過程で当庄などの年貢米運送船が当国在庁官人らに点定され、水手を徴発されたため、これを訴え、点定・徴発をとどめ期限内に運上すべく命じられている。同三年四月二四日、源頼朝は後白河上皇の命をうけて当庄など賀茂社領四二ヵ所の狼藉をとどめたというが(「源頼朝下文案」同文書)、この文書には検討の余地がある。

文明一二年(一四八〇)四月、賀茂社は当庄などに装束の新調を命じている(「装束新調庄役注文」賀茂別雷神社文書)

山田庄
やまだのしよう

近世、日高川の河口左岸、王子おうじ川沿いを中心とする地域を称した。名屋なや浦・北塩屋きたしおや浦・同浦枝郷猪野々いのの村・天田あまだ村、南塩屋浦・同浦枝郷森岡もりおか村、および南谷みなみだに村・明神川みようじんがわ村・立石たていし(現日高郡印南町)が含まれた(慶長検地高目録、続風土記)

山田庄
やまだのしよう

多武峯寺領荘園。護国院御神殿造営銭日記(談山神社文書)の永正一六年(一五一九)の「諸郷反銭納分四郷ハ五十文配、寄郷ハ百文配」に「九貫五百文 山田庄分納之、皆納」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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