山田城跡(読み)やまだじようあと

日本歴史地名大系 「山田城跡」の解説

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]豊前市川内

宇都宮氏一族の有力国人山田氏の居城とされる。本城とされる城と詰城とされる櫛狩屋くしがりや城からなる。貞和七年(観応二年、一三五一)三月日の野上広資軍忠状(尊経閣文庫蔵野上文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば、足利直冬方についた豊後御家人野上広資が「豊前国山田城」を攻撃し、「鷹尾」(現大村に高尾の小字がある)において合戦した。弘治三年(一五五七)豊後大友氏は豊前進出に抵抗した山田安芸守隆朝を攻め、同年六月二一日に山田城を落城させ、「彼一類衆行方不知」となった。

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]北浦村山田

妙義台みようぎだいにあり、東南は北浦に臨む。城主山田氏の由緒は明らかでないが、「行方軍記後世鑑」(高野家蔵)によれば、武州埼玉郡に居住し、前九年・後三年の役に源義家に従った山田美濃守の子太郎幹国が行方郡に移って山田城主となる。子孫に八郎頼国があり、頼国の嫡男が繁昌太郎、次男が中根次郎、三男が大崎三郎と称し、ともに源頼朝の催促に応じて出陣し戦功があったという。しかし嘉元四年(一三〇六)の関東下知状案(鹿島神宮文書)にみえる山田郷地頭牛熊丸・行方与一太郎と山田氏との関係は不明。

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]高山村中山田

現高山村西部中央字馬場ばんばにある山城。枡形ますがた城ともいう。比高約一五〇メートル、北背山稜を空堀で切る。南方から登る。頂上は東西二〇間、南北三五間の二段の郭をなし、上の郭に井戸がある。山脚を稲沢川が西流、西山脚に矢崎やさきから桜沢さくらさわに至る桜沢峠道、東に馬場から間山まやまへ至る間山峠道がある。いずれも南方東西に通じる古道に連絡する。

建武三年(一三三六)一一月の高梨時綱軍忠状(高梨文書)に、「右、上杉兵庫助以下凶徒等、当国楯籠牧城之間、山田要害押寄」、文明一六年(一四八四)五月の諏訪御符礼之古書に「此年五月、山田城高梨日向守高朝、高野仏詣留守中於、高梨刑部大輔政盛、城被取候」、弘治三年(一五五七)四月の長尾景虎書状案(色部文書)に、「従敵方相拘候地利、山田之要害福嶋之地打明候、除衆悉還住候」とある。

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]吾妻町栗林

南北朝期からみえる城館の跡。応安五年(一三七二)八月に高来たかく郡で南朝方が蜂起した際、大友氏の一族で豊後田原たわら別符(現大分県大田村)を拠点とする田原氏能は分領の山田庄内に山田城と野井のい(現愛野町)を築き、親類の木付左近将監らを配して征西将軍宮方の攻撃を防いでいる(同八年二月日「田原氏能軍忠状」入江文書)。同七年には深堀氏も今川氏に従って山田に赴いている(同年六月日「深堀時久代幸久軍忠状」深堀文書)。戦国末期、龍造寺氏の勢力拡大を阻止するため島津氏が島原半島に出兵、天正一二年(一五八四)三月二四日島原で龍造寺隆信が討死したことで大勢が決するが、島津義久の家老上井覚兼は四月二〇日には川上忠智・山田有信・伊地知重秀・八木昌信とともに森山もりやま(現森山町)に入って談合、「山田之城」の検分を行っている(上井覚兼日記)

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]野田川町字上山田

水戸みと谷の入口、標高一〇〇メートル内外の低い山上に、東西五〇メートルほどの平坦地と、その西に一段低くその半分ほどの平坦地が続いている。この地の字名はたちという。麓の祥雲しよううん寺からの登り口が大手である。

「細川大心院記」によれば、永正初年にはこの城(三戸口の城とよぶ)には、一色下山氏が立てこもっていたが、その「内の者」に肥後左京亮父子がいた。細川政元の命で府中ふちゆう(跡地は現宮津市)の一色氏討伐に下った香西孫六に攻められ降伏落城した。

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]山江村山田

南北朝期に両派に分れて戦った上相良氏・下相良氏が激しい攻防を繰広げた城で、建武五年(一三三八)八月日の相良定頼申状案(相良家文書)や、暦応三年(一三四〇)四月二五日の相良蓮道長氏譲状(同文書)に山田城の名がある。

山田城跡
やまだじようあと

[現在地名]東員町山田 城山

山田集落北方の標高一〇〇メートル前後の丘陵先端部に築かれ、丘陵の東裾には員弁川支流の弁天べんてん川が流れ、比高は約六〇メートル。員弁川流域の城館の多くが台地縁に位置するのに比べ、この城は比較的高所に築かれ、城跡からの眺望はよい。「桑名領古城図考」などの絵図には、城跡より一段低い場所に館と推定される郭が二つ描かれているが、土取りのためすでに消滅していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「山田城跡」の解説

やまだじょうあと【山田城跡】


沖縄県国頭(くにがみ)郡恩納(おんな)村山田にあるグスク(城)跡。沖縄本島西海岸に位置し、標高90mの琉球石灰岩台地上に築かれた平山のグスク跡で、三山時代には中山(ちゅうざん)勢力圏の北端に位置し、北山勢力圏との境界に配置された城である。琉球史上の三山統一期に、重要な役割を担う護佐丸(ごさまる)の最初の居城で、ここで生まれたともいう。尚巴志(しょうはし)による国家統一後、護佐丸が座喜味城(ざきみぐすく)に移る際、城壁の石も運ばれて廃城になったという伝承を残す。2008年(平成20)に国の史跡に指定された。城内からは、14世紀中ごろから15世紀初めのものと思われる中国産の青磁や貨幣、玉などを検出。護佐丸が築いた読谷(よみたん)村の座喜味城跡でも、山田城跡で発掘された出土品と同じ文様の土器が発掘されており、山田城から運んで使用していたと考えられる。城跡の西側崖地には護佐丸の先祖の墓があり、1740年(元文5)に建立された墓碑がある。那覇空港から車で約1時間10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報