山王町(読み)さんのうちよう

日本歴史地名大系 「山王町」の解説

山王町
さんのうちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ八丁目

惣十郎そうじゆうろう町の南に続く。南北に通る京橋南西中通西側の片側町。東は南大坂みなみおおさか町、南は堀、西は八官はちかん町・寄合よりあい町。南大坂町東裏にも町地があり、北は金春こんぱる屋敷、東は芝口北紺屋しばぐちきたこんや町、南は堀に面する。町名は以前麹町半蔵はんぞう門外に山王社(現千代田区日枝神社)があった時、その門前町であったことに由来する。万治年間(一六五八―六一)に山王社を永田ながた馬場(現千代田区)に移す際、山王町は代地を与えられて新橋しんばし川筋北岸に移転した(東京府志料)。承応江戸絵図に山王丁とみえる。安永三年小間附町鑑によれば京間九七間半、公役銀を納めていた。

山王町
さんのうまち

[現在地名]富山市山王町・千石町せんごくまち一丁目・西山王町にしさんのうまち西四十物町にしあいものちよう

太田口おおたぐち町の中ほどから西に延びる両側町で、山王権現(現日枝神社)が鎮座する。安政元年(一八五四)の富山城下絵図(県立図書館蔵)によると、覚中かくちゆう町・西四十物にしあいもん町の南側に並行して東西に長く延び、西は御坊ごぼう町に続く。山王権現は町並東部南側に位置し、同権現以西には家中屋敷が立並んでいる。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図には、広大な山王権現拝領地を記載しているが、町名はみえない。万治年間富山旧市街図にはあぶら町の町名で記載。安永八年(一七七九)の書上(「町方旧記抜書」前田家文書)には山王町とみえており、油町から改称されたのであろう。

山王町
さんのうちよう

下京区室町通仏光寺下ル

南北に通る室町むろまち通を挟む両側町。

平安京条坊では左京五条三坊二保六町東側及び同三保一一町西側。平安中期以降は高辻室町小路北の地。次の貞和二年(一三四六)の藤原氏女他寄進状(法観寺文書)は、当町西つらに所在する土地である。

<資料は省略されています>

応永三二年(一四二五)酒屋交名(北野天満宮史料)に、「高辻室町北東頬、本阿」とあり、町内東頬に酒屋があった。年代不詳であるが、応仁の乱後の祇園会山鉾巡行を記した「ほくの次第」(祇園社記)に「五条坊門室町高辻間、御ゆたて、手かき」とあり、当町から「御ゆたて山」を出しているが、現在は山鉾はない。

山王町
さんのうまち

[現在地名]新湊市放生津町ほうじようづまち

うち川の北岸、なか町の東に位置し、東は四十物あいもの町。北は富山湾に面し、砂浜が続く。町名はかつて当町に山王社(現日吉社)が鎮座していたことに由来(新湊市史)。天正九年(一五八一)一一月神保長住は放生津の八幡領町・同三宮方に制札を発給しており(同月一二日「神保長住制札」大西家文書)、山王社は三宮方に含まれたと考えられる。正徳四年(一七一四)山王社はたて町へ移った(富山県神社誌)おお(浜往来)は山王町通とよばれ、四十物町境ではあずま橋が内川に架けられ立町に通じた。

山王町
さんのうまち

[現在地名]滑川市山王町

東西に走る北陸街道に沿った両側町で、北は富山湾に面し、東はよこ町。寛永六年(一六二九)長泉ちようせん寺が当地に移転して山王社(現在の加島町に所在する加積雪嶋神社)の祭主となり、のち町が成立したと伝える(滑川町誌)。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)に山王町とみえ、北陸街道南側に面して長泉寺と山王社が描かれ、周囲の街道沿いに家屋が密集している。

山王町
さんのうちよう

上京区上長者町千本東へ下ル

町の北寄りを東西に上長者町かみちようじやまち通が通り、この通りから南へ町の中央を土屋町つちやまち通が下る。平安京大内裏「縫殿寮」から「内蔵寮」にかけての跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世聚楽第じゆらくだい遺構では西外郭の水堀にあたり、丹波少将豊臣秀勝の邸宅があった。廃城後は荒廃し、寛永一四年(一六三七)洛中絵図ではまだ野畑になっている。

山王町
さんのうちよう

下京区正面通木屋町東入南側西入共

東西に通る正面しようめん(旧七条坊門小路)に北面する片側町。町の中央をさん宮町みやちよう通が通る。

平安京の条坊では左京七条四坊三保一四町北側、平安中期以降は七条坊門富小路東の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「山王丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報