山崎城跡(読み)やまざきじようあと

日本歴史地名大系 「山崎城跡」の解説

山崎城跡
やまざきじようあと

[現在地名]大山崎町字大山崎

天王てんのう山山頂付近にあった城。山崎はその位置からも地勢からも西国街道を扼する要衝にあり、山崎を見下ろす天王山の城は軍事上の要地にあたる。

建武五年(一三三八)六月二六日付の林真弘軍忠状(前田家文書)に「山城国山崎警固事、就五月廿九日御教書並御書下、属当御手、林太郎兵衛尉真弘八王寺山馳参、鳥取尾城、自五月廿九日、迄六月廿三日夜、致用害警固候」とある。すなわち林真弘が赤松則祐の手に属して八王寺はちおうじ(天王山)に馳せ参じ、鳥取尾城を警固した。鳥取尾とは天王山の尾根筋の一つであろう。当時南朝方北畠顕信は男山(現八幡市)に籠城中で、これに呼応する摂津方面からの南朝勢の進攻を防衛するため鳥取尾城が築かれたものと思われる。次いで観応二年(一三五一)正月には足利尊氏が山崎に在陣し(「園太暦」観応二年正月一〇日条)、翌年の足利義詮らによる八幡やわた(現八幡市)攻めにも山崎は拠点の一つとなり(観応三年四月三日「足利義詮御判御教書」南狩遺文)、文和四年(一三五五)にも山内通忠代景山時朝が「山崎御陣」を「日夜警固」した(文和四年三月日「景山時朝軍忠状」山内首藤家文書)。これらは山崎城の記録ではないが、この南北朝動乱の間は、天王山の城も重要な役割を果したであろう。

応仁の乱と続く戦国争乱には、「山名弾正忠(是豊)ハ、兵庫ヨリ山崎ニ責上、天王山ヲ山城拵テ、相テ、上下ヲ淀・鳥羽・八幡ヲ支テ被居ケレバ」と「応仁記」がいうように、山城・摂津東部・河内北部を制圧する重要拠点として、山崎城の争奪が繰り返された。まず文明元年(一四六九)一二月、乙訓郡の細川方国人野田泰忠は、西軍が山崎を占拠するとの情報に先手を打って山名是豊の被官とともに山崎に着陣、南北朝時代と同じ鳥取尾山に城を構えて在陣し、翌年正月一四日敵の猛勢と鳥取尾城で合戦を演じた(文明六年三月日「野田泰忠軍忠状」別本前田家文書)

山崎城跡
やまさきじようあと

[現在地名]宮之城町山崎

川内せんだい川中流東岸沿いの南北に長い標高六五メートルを最高所とするシラスの独立丘陵に築かれた山城。山崎古城ともいう。

三国名勝図会」は答院郡司であった大前氏に属した城とするが、確認できない。同書は続けて渋谷氏系答院氏の重茂の三男重直が当地に分家したとし、「答院記」は重直が応永年間(一三九四―一四二八)当城を築いたとする。重茂の父公重(重成)の弟重久は久富木くぶきに、重直の兄延重の子重基は藺牟田いむた(現答院町)に、重基の兄の子諸重は大村おおむら(現答院町)に各々分家しており、これら四氏が答院氏の主要な分家で、いずれも応永頃に答院領内の要地に山城を築いた。この動向からみて当城は重直が応永年間に本格的に築いたと思われる。

山崎城跡
やまさきじようあと

[現在地名]山崎町鹿沢

揖保いぼ川とその支流菅野すがの川が形成する河岸段丘の南端部に位置する近世の丘城跡。山崎藩の政庁で、鹿沢しかざわ城・宍沢ししさわ城・山崎陣屋ともいう。山崎の地は山陽と山陰を結ぶ南北の街道と、山崎断層に沿う東西の街道の交差点に位置する交通の要衝である。元和元年(一六一五)池田輝政の四男池田輝澄が宍粟郡三万八千石の領主としてこの地に入封、山崎藩の政庁として築かれた。宍粟郡内の谷々が集まる扇の要のような地理的好位置にあり、城域の南は自然の崖地に石垣を積み、その裾部に揖保川から水を引いて堀とした。本丸は西・北・東の三方を薬研堀の内堀で囲み、東と西に二の丸を置き、中堀を経て東と北と西に三の丸を配した。三の丸には上士の屋敷を置き、外堀をめぐらせて北方の町屋と隔絶し、諸門を設けて城下町の陣容を整えていった(以上「播州宍粟郡守令交代記」「山崎町史」など)

山崎城跡
やまざきじようあと

[現在地名]祖父江町山崎 城屋敷

白山西はくさんにしの山崎神社の地から、東の字城屋敷しろやしきに及ぶ地域にあたる。「尾張志」には「山崎村にあり徳永法印居りしよし府志にいへり法印ハ美濃の高須の城主にて寿昌と称し武勇も人のほまれもありし士なりこゝをもかけ持に守りしなるへし今田圃となる」と徳永法印の居城とする。

「尾張名所図会」には「徳永法印城墟」として「山崎村にあり其あと今田圃となる徳永石見守昌時のち式部卿法印寿昌といひしハ慶長五年十一月美濃の高須を拝領して五万石余を領知せしが其はじめ当城にありしよしいひ伝へたり法印美濃の松木村にも住し人なればいつの頃ここにありしか知りがたし」という。

山崎城跡
やまざきじようあと

[現在地名]南区山崎町

「寛文覚書」に「古城跡壱カ所東西三拾間、南北四拾三間、先年、佐久間右衛門居城之由、今は寺屋敷ニ成」と記される古城跡。呼続元よびつぎもと町二丁目の安泰あんたい寺境内付近と伝える。古城跡に比較的詳しい「尾張志」には記されていない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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