山崎城下(読み)やまさきじようか

日本歴史地名大系 「山崎城下」の解説

山崎城下
やまさきじようか

揖保いぼ川とその支流菅野すがの川に挟まれた地に所在する山崎藩の城下町。藩庁の山崎城は現鹿沢しかざわに位置し、外堀に囲まれた郭内は山崎郭内と称された。城下町は外堀の北側、現在の山崎一帯に形成された。

〔城下町の成立〕

元弘年間(一三三一―三四)土豪の釜内氏が現門前もんぜん加生かしよう横須よこす上寺うえでらにまたがる篠の丸ささのまる(三三八メートル)に篠の丸城を築いたという。同城は天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の軍によって長水ちようずい城とともに陥落し、のち宍粟郡の領主は神子田半左衛門・黒田官兵衛と変遷した(播州宍粟郡守令交代記)。その後、龍野城主木下勝俊の支配を受けることとなり、同一五年頃に勝俊は山崎村新町を申付ける判物を出している(一一月一六日「木下勝俊判物」山崎八幡神社文書)。慶長五年(一六〇〇)姫路城主となった池田輝政は同年一一月九日に「山田町山崎町中」に対して市日の定を出し、毎月二・七の日を市日と定めるとともに、諸役免除などを規定した(「池田輝政定書」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報