大山崎(読み)おおやまざき

日本歴史地名大系 「大山崎」の解説

大山崎
おおやまざき

[現在地名]大山崎町字大山崎

天王てんのう山と、淀川に至る南・東南山麓一帯に位置する。古代以来、村のやや西寄りで山城国と摂津国に分れ、河川など自然の境界はない。長岡京の造営以来、長岡京・平安京と西国とを結ぶ水陸交通の要地。山崎村ともいう。

「日本書紀」白雉四年是歳条に「是に由りて、天皇、恨みて国位を捨りたまはむと欲して、宮を山碕に造らしめたまふ」とある。当時難波豊碕とよさき(跡地は現大阪市東区)にいた孝徳天皇は、皇太子らの飛鳥あすか移転に反対して皇位をすてようとし、山碕の宮をつくらせたという。ただし天皇は実際に山崎に移ることなく、翌年没した。一方、大山崎の名称は、貞応元年(一二二二)一二月一七日付六波羅下知状(離宮八幡宮文書)に「八幡宮寺大山崎神人」とみえる。その後とも地名は山崎だが、神人は大山崎神人を通称とし、大山崎もやがて地名となった。また平安前期、嵯峨天皇はしばしば山崎に遊び、漢詩を賦して山崎を河陽かやと称したので、河陽は山崎の別名として用いられた。

天平一三年(七四一)の東大寺奴婢帳(東南院文書)には「乙訓郡山埼里」が所見し、乙訓郡条里の南端にあたり、山崎は里名に用いられた。淀川に架ける橋は「行基年譜」に現れ、次いで長岡京造営とともに朝廷によって架橋・管理された。平安時代に入って山崎駅が置かれ、山崎津は長岡京・平安京の外港となった。一方、山崎関も置かれたが、大宝律令以来関の場所は摂津国とされ、山崎駅が史料に現れる弘仁初年にはすでに廃絶していた。

橋・津・駅の所在によって山崎の集落はしだいに賑いをみせ、斉衡二年(八五五)には火事で三〇〇余家を焼いたという(文徳実録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大山崎」の意味・わかりやすい解説

大山崎[町] (おおやまざき)

京都府南部,乙訓(おとくに)郡の町。人口1万5121(2010)。淀川が京都盆地から大阪平野に出る狭さく部に位置し,西部に天王山(270m)がそびえる。古くからの交通・軍事の要地で,古代には山崎駅が設けられ,山崎津は長岡京,平安京の外港として栄えた。室町時代は灯油を中心に商業活動を行う大山崎神人(じにん)の最盛期で,その活躍が目だった(大山崎油座)。1582年(天正10)には豊臣秀吉明智光秀が戦った山崎の戦の舞台となり,大坂城が築城されるまで秀吉の本拠となった。町の東部は桂川,小畑川の低湿なはんらん原で長い間水害常襲地となっていた。中央部は台地と段丘が広がり,竹林におおわれていたが,交通至便なため1960年代後半から急速に住宅地化した。工場の進出も著しく,日立製作所,サントリーなどの工場がある。油の神様として知られる離宮八幡宮妙喜庵,宝積寺など古社寺が多い。JR東海道本線,阪急京都線,国道171号線,名神高速道路が通る。
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世界大百科事典(旧版)内の大山崎の言及

【礼銭】より

…一般村落にあっても同様で,和泉国日根野では,軍隊の駐留禁止の制札をもらうため,制札の代は2枚で200疋であるが,そのために動いてくれた〈内談之輩〉10余人への礼銭が2000疋に及んだ(《政基公旅引付》)。自治都市においても同様で,大山崎では礼銭によって軍勢駐留の禁制を方々から得ており,また音信の礼物として,朝倉義景に青銅50疋,六角義弼に青銅100疋,細川晴元には鳥目200疋を出している(《離宮八幡宮文書》)。こうした礼銭は取次衆へも必要であったから,実際には記録されている以上に莫大な入費が要った。…

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