乙訓郡(読み)おとくにぐん

日本歴史地名大系 「乙訓郡」の解説

乙訓郡
おとくにぐん

面積:六・二〇平方キロ
大山崎おおやまざき

和名抄」は高山寺本に「オタキ」、刊本郡部に「於止久」、「延喜式」は神祇部に「オトクニ」、民部に「ヲトクニ」と訓じる。「日本書紀」垂仁天皇一五年八月一日条には、皇后日葉酢媛の妹竹野媛がその「形姿醜」によって出身地の丹波国へ返される途中、葛野かどので自ら輿から堕ちて死んだので堕国おちくにという、「今弟国と謂ふは訛れるなり」とするが、乙訓郡は葛野郡から分離して成立したもので、その意味から兄国に対する弟国が正しいと思われる。京都盆地の西南部に位置し、旧郡域は東・南はかつら川、西は摂津丹波の国境、北は大枝おおえ樫原かたぎはらの線(現京都市西京区)。国境には四〇〇―五〇〇メートル級の山塊がそばだち、急傾斜の断層崖を京都盆地に向け、断層崖の東側に段丘・丘陵が続き、東部は標高数メートルの低湿地となる。

〔古代〕

「和名抄」記載の郷はやまさき鞆岡ともおか長岡ながおか(刊本なし)大江おおえ物集もずめ訓世ぐせ榎本えのもと羽束はつかし石作いしつくり石川いしかわ(刊本なし)長井ながいの一一郷からなり、うち山は現大山崎町、鞆岡は現長岡京市、物集は現向むこう市に比定。

乙訓郡
おとくにぐん

「和名抄」は高山寺本に「オタキ」、刊本郡部に「於止(ママ)」、「延喜式」は神名帳に「オトクニ」、民部に「ヲトクニ」と訓ず。「日本書紀」垂仁一五年八月一日条の「堕国」、同継体一二年三月九日条の「弟国」などを勘案すると、「お(を)とくに」を採るべきか。大宝令施行時に旧葛野郡から分割されて成立した郡。郡域はかつら川右岸の現西京区の一部と向日むこう市・長岡京ながおかきよう市・京都府乙訓郡大山崎おおやまざき町及び左岸に面する南区・伏見区の一部にほぼあたる。すなわち、摂津国・丹波国と境する山間部と柱川沿いの平地から形成されていた。

古代、「和名抄」記載の山崎やまざき鞆岡ともおか・長岡(刊本なし)大江おおえ物集もずめ訓世くぜ榎本えのもと羽束はつかし石作いしつくり石川いしかわ(刊本なし)長井ながいの一一郷よりなり、うち大江・石作が現西京区内、訓世が現南区内、羽束が現伏見区内に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報