山国郷(読み)やまぐにごう

日本歴史地名大系 「山国郷」の解説

山国郷
やまぐにごう

近世の郷名。中世の禁裏御料山国庄は戦国期、宇津うつ城に拠る宇津氏に押領されていたが、天正七年(一五七九)七月、織田信長の命を受けた明智光秀が宇津氏を滅ぼし、もとの禁裏御料に復した。ところが同一三年に豊臣秀吉の命で、枝郷の大布施おぶせ八桝やます別所べつしよ三ヵ村(現京都市左京区)施薬せやく院領とされたのに伴い、残りの各村は亀山かめやま(現亀岡市)前田玄以(五万石)の領下に入り、禁裏への材木貢納が廃止された代りに、年貢米は禁裏と亀山へほぼ同額納付したようである(元禄年間「西家永代書留」西家文書)太閤検地は、小塩おしお村では天正一五年一〇月、しも中江なかえつじ上黒田かみくろだ・黒田みや・下黒田の各村は文禄五年(一五九六)九月に実施されたが、山国庄は惣荘山・宮座を固持して山国郷として再生した。

慶長七年(一六〇二)当所は幕府の直轄領となり、一時権田小四郎が亀山城代官に赴任して支配、その後江戸中期まで京都代官所の支配下におかれた。幕府領とするとともに幕府は山林に目をつけ、戸数割で山国郷(黒田村を含む)一六ヵ村に一三九貫三〇二文、黒田六ヵ村には六〇貫五四文の山役銭を課した(西家永代書留、「宝暦六年山国領奥山古実書」吹上家文書)。そこで慶長一一年に惣荘林馬場ばば谷・西にし谷・蘇武そぶ谷の三山を「其公役之高下」に応じて山国九ヵ村に分轄し(寛文一〇年「丹州山国境内之目録」山国神社文書)、さらに寛永八年(一六三一)には奥山(広河原、現京都市左京区)を、山国九ヵ村と黒田三ヵ村を一ヵ村とする一〇ヵ村で、斧役一〇八人役の割合で分割した(西家文書。山国神社文書には寛永七年と記す)

山国郷
やまぐにごう

和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を付していない。読みは慣例に従う。

郷域は山国一〇ヵ村すなわちしも鳥居とりいつじとう中江なかえ比賀江ひがえ大野おおの井戸いど小塩おしお初川はつかわ、さらに黒田くろだの上黒田・黒田宮くろだみや・下黒田・灰屋はいや芹生せりよう片波かたなみの各村(以上現北桑田郡京北町)と、山城国愛宕郡花背はなせ大布施おふせ八桝やます別所べつしよの各村(現京都市左京区)を包含する。下より井戸までの八ヵ村を山国杣または本郷と称し、その他の諸村を大布施杣または枝郷と称した。

山国郷
やまくにごう

「和名抄」の下毛郡七郷の一つの系譜をひく中世郷。建保五年(一二一七)一月二二日の大宰府守護所下文案(末久文書)に「山国吉富」等の地頭職を田部太子に安堵するとあり、山国吉富名は正嘉元年(一二五七)八月一五日の六波羅施行状(野中文書)にもみえる。このとき両名に対して雑掌成慶の違乱があったらしい。宝治元年(一二四七)七月一日の沙弥西阿譲状案(田口文書)に「一 山国郷屋敷村田地弐町伍反、田壱丁字石フチ 在家一宇 田壱丁字柿小野」がみえる。

山国郷
やまくにごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ヤマクニであろう。「出雲国風土記」によれば、意宇おう郡一一郷のうちで郡家の南東三二里余に郷長の家があり、地名は布都怒志命が国めぐりの際に「是の土は、止まなくに見が欲し」といったことに由来するという。正倉が置かれていた。郷内に三層の塔をもつ新造院があり、当郷の日置部根緒の建立とある。

山国郷
やまくにごう

「和名抄」下毛郡七郷の一。諸本とも訓を欠く。「太宰管内志」は「也万久爾と訓ムべし」として、名義を「山のたちめぐりたる処なるに因て、負せたりと聞ゆ」と記し、郷域を「山国ノ谷」、山国川の中・上流域一帯に比定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報