山国庄(読み)やまぐにのしよう

日本歴史地名大系 「山国庄」の解説

山国庄
やまぐにのしよう

大堰おおい川上流域に位置する禁裏御料の一円荘園。北は弓削ゆげ庄、西は吉富よしとみ本庄(宇都庄)、南は山城国愛宕おたぎ小野おの(現京都市北区)、東は同郡久多くた(現京都市左京区)に囲まれる。近世のしも鳥居とりいとうつじ中江なかえ比賀江ひがえ大野おおの井戸いど(以上の地が本郷とよばれる)、および小塩おしお(初川を含む)下黒田しもくろだ黒田宮くろだみや・上黒田・片波かたなみ灰屋はいや芹生せりようと、大布施おぶせ別所べつしよ八桝やます(現京都市左京区、以上の地が枝郷)の各村を荘域とした。

古代の山国郷が禁裏御料の荘園となったものである。山国郷は長岡京遷都の際、山国杣やまぐにのそまとして用材を調進したといい、また平安京遷都の際には杣御料地山国庄となり、杣工として官人三六人が移住してきたという伝えがある(古家撰伝集、坂上谷文書)。これが当地の有力農民層である名主家の先祖だという。その後、五二人増えて八八人となり(古家撰伝集)、近世末まで名主家として様々な特権を有した。

荘名の初見は天元三年(九八〇)二月二日の某寺資財帳(金比羅宮文書)で「山国庄廿五町余加林十二町 小塩黒田三町 弓削一町」とあり、この頃、京都某寺領であったらしいが、応保二年(一一六二)九月二〇日付官宣旨案(壬生家文書)には「修理職杣山」とあり、平安末期には再び禁裏御料になったと思われる。

鎌倉時代には、禁裏の「御布(施)御杣」(建久七年四月二一日付「御室氏女宗堂職補任状」菅河仁一家文書)、「修理職領丹波国山国杣内大布施」(嘉元三年一二月付「山国庄庄官連署宛行状写」同文書)、「丹波国桑田郡坂北県山国郷」(弘安六年一二月一八日付「采女部成光田地処分状」西八郎家文書)、「丹波国桑田郡山国杣修理職御領大布施御杣」(徳治二年三月二八日付「丹波守光田地処分状」同文書)などと称した。「玉葉」文治五年(一一八九)一二月三日条には「又紫宸殿南階、為(修理職)沙汰、而於丹波国大布施杣、雖置其材、荘々人夫称深雪、無其勤之由、所訴申也、仍於今者、権門荘々、慥可官使之由仰之、末代事、王化軽鴻毛、公事偏如実、無治術之世也」とみえる。のち「看聞御記」によると、一時法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)領になっていたのが、永享五年(一四三三)に再び禁裏御料に復帰したという(同年一二月一二日条)

山国庄は禁裏直務地で、公家が奉行・申次・代官などとよばれて、年貢公事の徴収や荘官の支配に当たった。南北朝期以降、庭田重之・万里小路忠房・烏丸資任・白川忠富王らがこの役に就任している。在地の荘官が史料上に現れる最も早い例として建久七年(一一九六)の御室氏女宗堂職補任状に番頭・公文・下司・定使という荘官職名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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