屋地村(読み)やちむら

日本歴史地名大系 「屋地村」の解説

屋地村
やちむら

[現在地名]宮之城町屋地

南西流する川内せんだい川南東岸にあり、対岸宮之城郷虎居とらい村。中世には虎居城の城下で虎居(虎井)のうちに含まれ、近世には宮之城島津氏の私領宮之城郷の麓村。

文禄四年(一五九五)日向都城の北郷長千代丸(忠能)けどう院に移封されて虎居城に入り(北郷氏系図)、城名を宮之城と改めたという。これにより同城下にあたる当村は宮之城村とよばれるようになったとされる(「宮之城記」など)。御秘文雑集(都城島津家文書)所収の慶長三年(一五九八)一月二六日のものとされる知行目録では宮之城は高四五二石余。また長千代丸の叔父久村に分知された三千四石余のうちに宮之城仮屋屋敷一石余があった。同五年北郷氏は旧領日向都城に復し、当村はその後宮之城島津氏の私領となった。同一九年の島津久元宛知行目録(島津尚久系図)では宮之城屋地村とあり、高二一三石余、門屋敷二八。知行割替後の寛永六年(一六二九)の知行目録(同系図)でも同高、ほかに屋地村・平川ひらかわ村竿迦として高一二石余とある。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳には宮之城村とあり、高四五三石余。享保一〇年(一七二五)検地竿次帳(原口虎雄筆写本)によれば田畠屋敷一一四町五反余(田七六町九反余・畠二四町六反余・屋敷一二町八反余)、籾大豆三千三〇二俵余(籾二千九一六俵余・大豆三七二俵余・上木籾一三俵余)で、上木籾の内容は茶八三斤余・柿一四六本・桑二六本・小唐竹二〇二束・柴竹一三六束であった。

屋地村
やちむら

[現在地名]米沢市遠山町とおやままち

遠山村の東、城下林泉寺りんせんじ町の南西に位置する。谷地村とも書く。天文七年(一五三八)の段銭古帳に上長井庄のうちとして「やち」がみえ、一四貫二五〇文を上納している。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、「やち」のうちを、勾当が高屋方より買地の「はゝさいけ」を安堵され、瀬上中務大輔が横尾平右衛門分「かき在け」、皆川四郎兵衛分「きうてん在け」、大津源三分「といまい在け」、宮崎孫兵衛分「しゆりさいけ」、長瀞右馬頭分「かミのさいけ」、大納言分「山のかミ在け」を与えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android