屈原((前340?―前278?))(読み)くつげん

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

屈原((前340?―前278?))
くつげん
(前340?―前278?)

中国、戦国時代の楚(そ)国の忠臣。名は平。原はその字(あざな)。楚の王室の一族。初め懐(かい)王(在位前328~前299)に仕えて左徒(副宰相)となった。博覧強記で古今の治乱に明るく、文章言辞にも優れていたうえに、内政外交の両面にわたって目覚ましい活躍をしたので、一時は懐王から厚く信任されていたが、彼の有能ぶりをねたむ同僚の上官大夫の讒言(ざんげん)によって、たちまち王の憤怒を買い、その地位を失った。

 当時、楚と斉(せい)とは合従(がっしょう)の同盟国であり、屈原は、祖国の存続を図るためには、この南北の両国が盟約を固めて、残忍非道な秦(しん)にあたるほかはないと確信していた。しかし懐王は、目先の利欲に目がくらみ、連衡(れんこう)を唱える秦の策士張儀の甘言に欺かれて盟邦の斉と国交を断絶し、さらには張儀から多大の贈り物を受けた侍臣の靳尚(きんしょう)や、懐王の寵愛(ちょうあい)する美女鄭袖(ていしゅう)の意見に惑わされて、屈原の忠告も及ばず、ついに秦に近づき、果ては秦に大敗して領土を削られ、懐王自身も秦に捕らえられて、かの地で客死した。

 ついで即位した頃襄(けいじょう)王(在位前298~前263)の初年、屈原と意見を異にする令尹(れいいん)(宰相)の子蘭(しらん)(頃襄王の末弟)は、上官大夫をそそのかして、屈原のことを頃襄王の面前でののしらせたため、それを聞いた王は怒って屈原を首都から追放した。以後、屈原は、祖国への忠誠と奸臣(かんしん)たちへの憤怨(ふんえん)を抱きつつ、都の郢(えい)(湖北省江陵県)を去って洞庭湖のあたりを放浪し、最後は汨羅(べきら)(湖南省湘陰県の北を流れる川)に身を投げて死んだ。その日は旧暦5月5日、端午(たんご)の節供にあたっていたという。この日に、ちまきをつくって食べる習俗があるのは、屈原の亡魂を祭る行事に由来するものであり、またこの日に、竜船をこいで競争する風習も、汨羅に身を投げた屈原の霊魂を救う祭事から出たものだといわれる。

 古来、屈原は、楚辞(そじ)文学の創始者と称せられ、かの有名な「離騒(りそう)」をはじめ「九章」の各編や「九歌」「天問」などの諸編は、いずれも彼の傑作と絶賛されている。しかし、これらの作品の形式や表現を相互に比較検討してみると、かならずしも彼の自作とは認めにくい点が多々あり、むしろ宋玉(そうぎょく)ら後世の辞賦(じふ)作家によって次々とつくり継がれた可能性のほうが大きい。おそらく屈原の死後、楚国が衰亡していく過程で、この悲運の忠臣を追慕する人々の手になった、一連の民族的英雄詩であると思われる。

[岡村 繁]

『目加田誠著『屈原』(岩波新書)』

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