日本大百科全書(ニッポニカ) 「楚辞」の意味・わかりやすい解説
楚辞
そじ
中国の戦国時代の末ごろ、楚(そ)国(湖北・湖南地方)の屈原(くつげん)のつくった詞賦(しふ)(うた)と、同じ作風の弟子や後人の作とを集めた書物の名。またその文体の称。屈原の楚辞25編を「離騒(りそう)」とも総称する。
楚の王族屈原(前3世紀ころ)は同僚の讒言(ざんげん)によって退けられ、憂愁怨思(えんし)して「離騒」の賦をつくり、懐王の反省を求めたが用いられず、国の滅びるのをみるに忍びず、ついに汨羅(べきら)(洞庭湖(どうていこ)に注ぐ湘水(しょうすい)の淵(ふち))に投死したと伝えられる。後人は屈原を追慕哀惜して、その作風を学んで賦をつくった。漢の劉向(りゅうきょう)は屈原および後人の作に、自作1編を加えて『楚辞』16巻を編集した。後(ご)漢の王逸(おういつ)はその辞章を校定注釈して『楚辞章句』16巻を著した。現存の書は、屈原の「離騒経」「九歌(きゅうか)」「天問(てんもん)」「九章(きゅうしょう)」「遠遊(えんゆう)」「卜居(ぼくきょ)」「漁父(ぎょほ)」の7巻25編を「離騒」と総称し、弟子宋玉(そうぎょく)の「九弁(きゅうべん)」「招魂(しょうこん)」、同じく景瑳(けいさ)(あるいは屈原)の「大招(だいしょう)」、漢の賈誼(かぎ)の「惜誓(せきせい)」、淮南小山(わいなんしょうざん)の「招隠士(しょういんし)」、東方朔(とうぼうさく)の「七諫(しちかん)」、厳忌(げんき)の「哀時命(あいじめい)」、王褒(おうほう)の「九懐(きゅうかい)」、劉向の「九歎(きゅうたん)」に王逸の「九思(きゅうし)」を加えた10巻を「楚辞」と分類し、計17巻となっている。宋の洪興祖(こうこうそ)は本書について『楚辞補注』17巻をつくった。朱熹(しゅき)(朱子)は、屈原賦を「離騒」、宋玉以下「招隠士」までを「続離騒」として『楚辞集註(ちゅう)』8巻を著し、旧注を訂正して『楚辞弁証』2巻をつくり、晁補之(ちょうほし)の『続楚辞』『変楚辞』を削定して、周の荀卿(じゅんけい)の「成相(せいしょう)」「佹詩(きし)」以下、宋の呂大臨(りょたいりん)の「擬招」までの52編を『楚辞後語』6巻とした。明(みん)の汪瑗(おうえん)、清(しん)の林雲銘(りんうんめい)、蒋驥(しょうき)らは屈原賦と「招魂」「大招」とを伝述したので、それだけを『楚辞』とする本もある。いわゆる屈原賦は次のとおりである。
(1)離騒 「離騒経」は尊称である。「離」は「罹(り)(かかる)」、「騒」は「憂」、憂(うれ)いにかかるの意味である。楚と同族の正則、字(あざな)は霊均(れいきん)という貴公子の独白、373句の長編詩である。霊均は潔白純正なために世にあわず、無実の罪で追放されて憂悶(ゆうもん)苦悩し、天空を翔(か)けり、地の果てを極め、伝説神話の世界にまで知己を求めるが得られない。天光のなかを昇ろうとしても楚国の山河に心ひかれて悲しむが、ついに決然と敬慕する彭咸(ほうかん)のもとに去ろうという。構想は雄大、詞句は優美、浪漫(ろうまん)的な情調があふれ、国を憂え君を思う感情の激しさは、屈原自身を投影したもので、実に古典詩の傑作である。
(2)九歌 東皇太一(とうこうたいいち)(天帝)、雲中君(うんちゅうくん)(雲神)、湘君(しょうくん)・湘夫人(湘水の2神)、大司命(だいしめい)・少司命(しょうしめい)(運命の2神)、東君(とうくん)(日神)、河伯(かはく)(黄河の神)、山鬼(さんき)(女性の山霊)、国殤(こくしょう)(戦死者を悼む)、礼魂(通常の祭礼)の11編は9種の祭祀(さいし)歌で、屈原が古歌詞を修正したと伝える。神話的、宗教的な感情に満ちた、優れた祭りの歌である。
(3)天問 屈原が祠堂(しどう)の壁画の怪奇な物語を詰問して、憂憤の情を漏らしたと伝えるが、375句のなかに、天地宇宙や古代の多くの伝誦(でんしょう)を問いの形で述べたものとみられる。
(4)九章 惜誦(せきしょう)、渉江(しょうこう)、哀郢(あいえい)、抽思(ちゅうし)、懐沙(かいしゃ)、思美人(しびじん)、惜往日(せきおうじつ)、橘頌(きっしょう)、悲回風(ひかいふう)の9編は屈原が流離の憂悶を述べたものとされる。橘頌(たちばなのうた)はもっとも早い時代の作。抽思、悲回風、惜誦は離騒とほぼ同じころ、懐王の時代の流離の際に、また思美人、渉江、哀郢、懐沙、惜往日は頃襄(けいじょう)王のときの追放以後、晩年につくられたものであろう。ことに懐沙は砂石を抱いて投水する辞世の詞と伝えられる。
(5)遠遊 離騒と詞句内容も似ているが、神仙思想の色彩もあり、後人の作であろう。
(6)卜居 屈原が、俗人とともに君にこびるか、潔白を守り孤独に住むかに迷って、太卜(たいぼく)(占い)に問うが、卜者は、屈原のように志の固い人は卜(うらな)うことができない。自分の志を行うがよいと答える。これも後人の作のようである。
(7)漁父 屈原は湘水の淵のあたりで老漁夫に会い、「世を挙げて皆濁りて、我独り清(す)めり。衆人皆酔ひて、我独り醒(さ)めたり」という。漁夫は世とともに推移することを勧めるが、屈原は潔白の身を世の塵(ちり)に汚すよりは投死するほうがよいという。漁夫は笑って「滄浪(そうろう)(川の名)の水清(す)まば、以(もっ)て吾が纓(えい)(冠の紐(ひも))を濯(あら)うべし、滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯うべし」と歌って漕(こ)ぎ去ったという。これも後人の作であろうが、屈原の性格を鮮明に物語るものであり、「漁父の辞」として知られる。
楚辞はもと楚国の祝(しゅく)(神官)の祝詞(のりと)の類から発展して、詩句の様式となったものであるから、その祭祀(さいし)や神話伝承のもつ浪漫的な情調が豊かである。これは北方の『詩経』にはみられない南方的特色である。後世の中国文学のもつ浪漫性は『楚辞』の伝統である。句中または句尾に「兮(けい)」という調子をとる助字があるのが「楚辞」の様式である。「招魂」は句末に「只(し)」、「大招」は「些(さ)」の字を置く。また長編の終章に一編の意をまとめた「乱」という短章があるのもその特色である。
[星川清孝]
『藤野岩友著『漢詩大系3 楚辞』(1967・集英社)』▽『星川清孝著『楚辞の研究』(1961・養徳社)』▽『星川清孝著『新釈漢文大系34 楚辞』(1970・明治書院)』▽『星川清孝著『中国古典新書 楚辞』(1970・明徳出版社)』