小野田村(読み)おのだむら

日本歴史地名大系 「小野田村」の解説

小野田村
おのだむら

[現在地名]袋井市愛野あいの

山名やまな郡に所属。西は高部たかべ村、南は赤尾あかお村、小笠山おがさやま丘陵の西端部に位置し、北側を原野谷はらのや川が流れる。中世は山名庄石野いしの郷のうち。正安三年(一三〇一)五月二一日の大仏宣時下知状(本間文書)によれば、「石野郷内小野田村」の所有をめぐって小野田尼養女山城兵衛五郎(宗光)妻と山内大炊左衛門太郎通勝妻が相論したが、通勝妻は田二町と屋敷二宇を、宗光妻は残り一円を知行することで和与し、これを遠江守護大仏宣時が承認している。文和二年(一三五三)から貞治三年(一三六四)の間のものと思われる九月六日の鎌倉公方足利基氏書状(同文書)によれば、基氏は遠江守護今川範国に対し当村を本間山城四郎左衛門尉頼久に知行させるよう求めている。この要請は実現されたようで、当村はその後頼久(守季)の子孫に相伝されている。なお「本間系図」では前掲の山城兵衛五郎は頼久の親となっている。頼久の孫久季は長禄三年(一四五九)八月遠江で起こった戦乱の最中、高部の慈恩じおん寺において、所持していた小野田村証文等の重書を紛失したと上申し、寛正二年(一四六一)八月一八日、某信久から紛失の確認を受けているが(「本間久季紛失状」本間文書)、この文書は検討の余地がある。

小野田村
おのだむら

[現在地名]阿蘇町小野田

役犬原やくいぬばる村の北にあり、北西は綾野あやの村に接する。元徳元年(一三二九)から始まる阿蘇社造営に際し、当地より料木などを負担している(同二年一月一四日「阿蘇社造営料木第三箇度切符写」など、阿蘇家文書)。建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(同文書)には渋河兵庫助が沙汰する北郷中に「一所十町 小野田下山田 北薗 河嶋方 上井手郷」とみえる。正平一一年(一三五六)一〇月八日の阿蘇庄上竹原四家分検見注文(同文書)に「おのたのふん 百しやうもろ二らう」とあり、二町七反四丈のうち八反三丈が不作、一町七反一丈が現作の御米田で中司らの検見により阿蘇社の年中祭料に充てられる。このほかに「二反まのあとの下百しやうやしきつきのきう分云々」とあり、百姓屋敷付の給分の除田がある。

小野田村
おのだむら

[現在地名]海南市小野田

多田おおた村の東、かめの川が北から西へ流れを変える地点の東北側に中心があって、狭小な盆地と低い丘陵の間に集落が点在する。村域は南北三キロ、東西二キロと広く、近世には東村・西村・鍬初・青井谷の四つの小名があった。名草なくさ郡に属し、北は黒谷くろだに(現和歌山市)、西は且来あつそ村・大野中おおのなか村など、南は重根しこね村・坂井さかい村に接する。東は小池こいけ峠を経て那賀なが別院べついん村に至る。久安元年(一一四五)の秦宿禰守利私領売渡状案(間藤家文書)に記される三上みかみ院内の一二郷の一つに「小野田郷」がみえる。

小野田村
このだむら

[現在地名]船橋市小野田町

車方くるまがた村の北に位置し、北を神崎かんざき川が流れる。その分流小野田川に沿って東向きに開いた谷津が広がる。また東には鈴身すずみ川が北流する。地内の光明こうみよう寺の後方から祖師堂の後方にかけて中世城跡と考えられる土塁があり、光明寺安房神社および祖師堂後方の民家がある範囲が小野田城跡と推定される。北西隅には土塁や堀跡がみられ、安房神社の東側に地名じようがある。

小野田村
おのだむら

[現在地名]浪江町小野田

高瀬たかせ川左岸にあり、南の対岸は井手いで村、西は大堀おおぼり村。南面一帯は良田で、北側を浪江堰、中央を大堀堰が流れる。村域中央に中禅寺ちゆうぜんじの地名があり、現在高瀬にある曹洞宗仲禅寺の旧地という。建武四年(一三三七)五月日の伊賀盛光軍忠状(飯野八幡宮文書)に「五月十八日御敵馳向奥州椎葉郡中前寺」とあり、合戦が行われている。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に小野田太郎兵衛・小野田八郎・小野田織部らの名がみえ、地名を姓とした武士であろう。北部丘陵上に大和田おおわた原という地があり、天正年間(一五七三―九二)大和田内記の居館跡という(奥相志)。総士禄高調では「四貫九百九十文 大和田内記」とある。

小野田村
おのだむら

[現在地名]和泉市小野田町

仏並ぶつなみ村の東、下宮しものみや村・北田中きただなか村の南の父鬼ちちおに川右岸にある。横山よこやま谷の一村。文禄三年(一五九四)検地帳(池辺家文書)は横山谷で一括されていて村高は不明だが、当村居住者の名請人四名。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえ、高六九九石余(枝郷九鬼村分を含む)。寛永一五年(一六三八)の年貢高は二八〇石余、うち一五石余は大豆納(同文書)。これも九鬼くき村分を含む。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高五二六石余(九鬼村分を含む)幕府領

小野田村
このだむら

[現在地名]津市大里小野田おおざとこのだ

山田井やまだい村の北に位置し、平坦部にある村。志登茂しとも川支流の前田まえだ川が村域の北端を流れる。慶長六年(一六〇一)には、当村四七二・五九石は上野城(現安芸郡河芸町)城主分部光嘉の知行地となる(「勢州安芸郡本知・御加増御知行帳」滋賀県高島町円光寺蔵分部文書)。しかし同一八年の領地組替で、当村は分部家所領から除かれ(同年二月一二日「在所目録」河芸町郷土史)、慶安郷帳(明大刑博蔵)では、当村は全域和歌山藩領と記されているので、元和五年(一六一九)徳川頼宣の和歌山入封の際に同藩領とされたものであろう。

小野田村
おのだむら

[現在地名]宇和町小野田

宇和盆地南部、宇和川支流の根笹ねざさ川に沿う谷間の村。東は久枝ひさえだ村、南は野田のだ村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「小野田村 茅山有、日損所」と記される。

太閤検地の石高は三八二石一斗七升四合、耕地面積の比率は田八六パーセント、畑一四パーセントであった。寛文検地では石高が五パーセント減少し、田七五パーセント、畑二五パーセントと変化している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報