小海村(読み)こうみむら

日本歴史地名大系 「小海村」の解説

小海村
こうみむら

[現在地名]小海町大字小海

現小海町の千曲川東側の全域。東は大日向おおひなた(現佐久町)北相木きたあいき(現北相木村)と山嶺をもって境し、西は千曲川によって馬流まながし鎰掛かぎかけ八那池やないけの諸村に相対し、北は崎田さきだ(現八千穂村)上海瀬かみかいせ(現佐久町)と、南は海尻うみじり村・海口うみのくち(現南牧村)南相木村(現南相木村)北相木村(現北相木村)などに接する。

東から関東山系の支脈茂来もらい(一七一八メートル)の裾が、かなり急斜面をもって千曲川の谷に迫り、平地が少ない。集落は土村どむら組が標高八八〇―九八〇メートルの千曲川畔の狭長な沖積地に、本村ほんむら中村なかむら組が相木川の谷底のやはり狭い沖積地に位置し、茂来山麓の標高九五〇―一二〇〇メートルの台地と谷間に、親沢おやさわ川に沿って親沢組(川平かわだいらを含む)、市の沢いちのさわ川に沿って宿渡しゆくど組・笠原かさはら組・市の沢組がそれぞれ立地する。

中村の北方、相木川の右岸に突き出した急峻な丘陵上に「ねごや城跡」がある。狼煙台とよばれ、山麓に「ねごや」の地名があり、居住地として好適な湧水がある。頂上からは相木の見張城跡と呼応し、北西方には本間城や蟻城があり、戦国時代相木方面と関係をもった狼煙台と考えられる。

天正六年(一五七八)上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「上諏方北方大鳥居 佐久郡之内拾二郷(中略)小海之郷壱貫三百文」とある。天正一四年依田康国領で信州佐久郡之内貫之御帳には一二〇貫文、元和三年(一六一七)仙石忠政領で御郡中永楽高辻(大井篤義氏蔵)では二一〇石の村。

寛永六年(一六二九)徳川忠長領、小海村検地帳(四冊)によれば、高二二二石五斗五升四合、耕地三一町三段九畝九歩、そのうち田は一町八段三畝二歩で、上田はなく、中田が中村に二枚(一段五畝一八歩)だけ、下田も中村・本村に五枚(一段九畝七歩)

小海村
おうみむら

[現在地名]引田町小海

小海川の中・上流域に位置する。低い山地の間に川原谷かわらや南谷みなみだに北谷などの谷間の集落があり、川に沿った小平地に中村なかむら大下おおしもほうそうなどの集落がある。東は塩屋しおや村。小海川北岸山上に横穴古墳があり塚穴つかあなとよばれている。寛永国絵図の引田郷のうち小海・瓦屋かわらやが村域にあたる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では村高四〇〇石余。年貢は引田御蔵に納めた。

小海村
こうみむら

[現在地名]沼津市内浦小海うちうらこうみ

重寺しげでら村の南にある。西は海(内浦湾)に面し、南は三津みと村。「増訂豆州志稿」によれば、古くは三津村と一村であったという。天正元年(一五七三)九月一七日、北条家臣安藤氏は重須おもすの退転した「網所」の再興について同所の土屋氏などに指示を与えている(「安藤良整書状」長浜大川文書)。同書状には「此上者三津・長浜・向海・重寺之面々相談」とあるが、この「向海」は小海と考えられる。江戸時代は初め幕府領、宝永四年(一七〇七)間部詮房(のち上野高崎藩主)領となり、その後幕府領に復すが、天明二年(一七八二)一部が沼津藩領となる。

小海村
おみむら

[現在地名]土庄町小海

島北部沿岸の中央に位置し、嶮岨けんそ山を源とする鳴滝なるたき川・たちばな川の合流地域。慶長一〇年(一六〇五)の検地時、島内は四組に分けられ、当村は北浦組の中心であった。寛永三年(一六二六)以降の九郷時代には小海郷の本村として庄屋三宅氏が在住した。三宅氏は児島高徳の後裔と伝え、応永年間(一三九四―一四二八)半左衛門盛遠が美作より来住し、応永三一年当地雲故うんご庵に大般若経を奉納、その一部が現存している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報