高野町村(読み)たかのまちむら

日本歴史地名大系 「高野町村」の解説

高野町村
たかのまちむら

[現在地名]佐久町大字高野町

千曲川左岸の沖積地に位置する。西方北沢きたざわ川の谷筋との間には比高約二〇メートルの台地があり、台地の西南方に小山沢こやまさわがあり、耕地が開けている。千曲川に沿う低い第一段丘面の東縁を佐久甲州往還がほぼ南北に通じ、宿場町を形成している。

東は千曲川をもって海瀬新田かいぜしんでん村に対し、一部は川を越えて平林ひらばやし(現臼田町)に接している。西はかみ村と中小田切なかおだぎり(現臼田町)に、南は下畑しもはた村・大窪おおくぼ(現八千穂村)、北は宿岩やどいわ村・中小田切新田村に接している。

西方の台地上から北沢川の谷筋にかけては、縄文中期後期・弥生後期・古墳時代にわたる佐久西学校裏遺跡で、佐久地方でも主要な遺跡地の一つである。字北沢の塚畑つかはた古墳は佐久地方における南限の古墳として注目されている。北沢には全長二・五メートルという巨大石棒も存在している。この台地の北東の突端には高野城跡がある。小規模な平山城であるが、正確な史料は残されていない。

中世には鷹野郷とよばれ、建武二年(一三三五)山城国大徳寺領佐久郡伴野庄の雑掌水沼実真が同庄の年貢員数を大徳寺に注進した「伴野庄郷々村々御年貢存知分事」(大徳寺文書)に「鷹野郷 八百余貫文」とある。嘉暦四年(一三二九)三月に諏訪社上社の御射山頭役結番等を定めた際(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)にも、五番五月会分として、「御射山左頭、佐久郡伴野庄大沢・鷹野郷駿河守跡」とある。駿河守は北条基時と考えられるので、鎌倉時代末には鷹野たかの郷は北条氏が地頭職をもっていたものと思われる。諏訪御符礼之古書にも鷹野郷がしばしばみえ、伴野本郷や桜井さくらい小宮山こみやま代官にも鷹野中務入道道中、鷹野伊豆入道沙弥宥堅、鷹野美濃守満守その他鷹野氏の名が多くみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報