小坪村(読み)こつぼむら

日本歴史地名大系 「小坪村」の解説

小坪村
こつぼむら

[現在地名]逗子市小坪一―七丁目・新宿しんじゆく一―五丁目

西北部の丘陵性山地がさぎ(小坪湾)を囲んで階段状の漁村をつくる部分が本村である。東南部は田越たごえ川沖積低地で、新宿浜(現逗子海岸)とよばれ、田越川と支流御縄おなわ(川間川)に囲まれ、昭和一八年(一九四三)横須賀市に合併されるまでは本村に対して東小坪とよんだ。北は名越なごえ丘陵とその突端飯島いいじま崎を境として乱橋材木座みだればしざいもくざ(現鎌倉市)に接する。古東海道は海岸に近い丘陵と小坪湾、その南の披露ひろ台地の上を通って新宿浜に下ったと思われ、江戸時代まで小坪村から南へ出入りする道はほぼこの道と一致していた。別に鷺浦から海崖の中腹を通り飯島崎に出る俗称親不知おやしらずの難所があった。

吾妻鏡」寿永元年(一一八二)六月一日条に「武衛以御寵愛妾女号亀前、招請于小中太光家小窪宅給」とあり、「小窪」は同年一二月一〇日条に「御寵女遷住于小中太光家小坪之宅」とあるので、当村をさすと思われる。それ以前の治承四年(一一八〇)八月一七日には畠山重忠三浦義明が「由井・小坪の浦」でたたかっている(平家物語)。「吾妻鏡」建久四年(一一九三)七月一〇日条によれば、源頼朝がこの地に遊宴し、正治二年(一二〇〇)九月二日には「羽林令覧小壺海辺」と頼家も遊覧し、この時水練の達人朝夷名三郎義秀は素手で「生鮫」三尾を捕らえたとある。同書元仁元年(一二二四)一二月二六日条によれば、「東六浦、南小壺、西稲村、北山内」が鎌倉の四境であった。鎌倉時代最末期の元徳元年(一三二九)一二月二二日の長井道可(頼秀)譲状(毛利家文書)によれば、鎌倉のうち「はまのこつほ たくまの谷」を嫡子貞頼に譲り渡している。延文二年(一三五七)九月二七日および足利尊氏の百箇日にあたる翌三年八月一一日に、尊氏の家臣饗庭氏直より鎌倉円覚寺黄梅おうばい院に小坪郷内の地が寄進されている(至徳元年四月日「黄梅院文書目録」県史三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報