専福寺(読み)せんぷくじ

日本歴史地名大系 「専福寺」の解説

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]岐阜市加納新町

名鉄名古屋線加納駅の南西方に位置。大会山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によると、清水しみず川左岸、しん町の西部南側にあり、加納城の北方にあたる。嘉禎元年(一二三五)親鸞が関東より帰洛の途、尾張葉栗はぐり木瀬きぜ(現羽島郡岐南町)にとどまり念仏の教えを広めた。その時、親鸞に帰依した河野四郎通勝(専称坊)ら九人が木瀬草庵(河野道場)建立、念仏弘通の中心としたことに始まるといわれる。

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]岡崎市祐金町

祐金ゆうきん町のほぼ中央より伝馬てんま通へ南北に通ずる専福寺小路(現モダン通)の西側に位置する。本徳山と号し、真宗大谷派。もと佐々木上宮ささきじようぐう寺末。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば天台宗の僧澄円が聖徳太子木像を奉じて三河に来て、天白てんぱく山の麓に一庵を結んだのに始まり、一二代善祐の時親鸞に帰依して改宗したという。当寺系図には本多助定の次男助家、法名祐誓が初代で、四代祐了の時土呂とろ蓮如から九字名号などを下付されたとする。また文明二年(一四七〇)天白山より能見のみ大手口に移ったという。

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]高岡市利屋町

北谷山と号し、本尊阿弥陀如来。浄土真宗本願寺派。往古天台宗で、婦負ねい二屋ふたつや(現八尾町)に寺基を構え、慶順代の正慶元年(一三三二)浄土真宗に帰したという。その後天文元年(一五三二)射水いみず黒川くろかわ(黒河、現小杉町)、天正一七年(一五八九)守山もりやま城下、慶長三年(一五九八)富山城下、同一四年に高岡へ移転したとされ(貞享二年寺社由緒書上)、前田利長の移動とともに寺基を移したことになる。

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]大野市友兼

友兼ともかね集落の北端にある。真宗高田派。高山と号し、本尊阿弥陀如来。開基専性は「三河念仏相承日記」にみえる「佐塚ノ専性」のことともいう。永正一五年(一五一八)七月二三日の高田専修寺越前国末寺連署法度(一身田専修寺文書)に「最勝坊顕誓」とみえ、大永五年(一五二五)六月七日の聖徳寺真西等誓約状(同文書)に「大野専福寺顕誓」とある。またこの頃の坂本御番帳(同文書)に「北御門専福寺」とある。初め北御門きたみかど村にあったものが、永禄一二年(一五六九)六月一六日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)に「友包専福寺」とあるから、その後、友包ともかねすなわち友兼に移ったらしい。

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]会津若松市千石町

てら町に続く餌指えさし町の東にある。松井山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。開基は無為信で、会津郡一堰いちのせき村の光明こうみよう(天台宗)境内に一庵を構え、文永元年(一二六四)七九歳で往生。応永年間(一三九四―一四二八)に蘆名氏四天の宿老富田美作守の庶子助観が無為信の跡を継ぎ、一堰村に一宇を建立して専福寺と称した。永禄年間(一五五八―七〇)に蘆名盛氏のとき郭内米代よねだいに移転し、文禄元年(一五九二)蒲生氏郷の命により赤井あかい丁の堀端(諏訪神社の北)に移る。

専福寺
せんぷくじ

[現在地名]田布施町大字波野 久保

行者ぎようじや山南麓にあり、浄土真宗本願寺派。富正山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によればもと真言宗林正りんしよう坊と称し、文禄年中(一五九二―九六)に簾原某が剃髪して宗慶と改め、その後真宗に改宗し、元和九年(一六二三)寺号を許されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android